2025年06月04日

東山魁夷の青緑

青緑色の風景。
「これこそ東山魁夷の色だ」と感じるくらい、その青緑からは深い印象を受ける。

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このような風景画は、実在する風景だけれどいわゆる写生ではなく、一度深く内面に落とし込んで“心象”となり、ふたたび浮かび上った景色だ。

個人の魂の深奥に深く深く降りて行くと、やがて個的でありながら普遍と言える場所にたどり着く。
人々が、それぞれの内なる道を通ったのちにその普遍に立ち、この場所を知っている、と感じられる源...

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夜明け前の薄明の中、それまで色のない影のように見えた木々に、しだいに色が戻って来るときの青緑。
もちろん薄明時にだけスケッチしていたわけではないだろうけど、そのように見える、不思議な青緑...

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時々ふと深く帰りたくなる場所なのだった。


画像:東山魁夷全集4「北欧の旅」、東山魁夷全集6「ドイツ・オーストリアの旅」(講談社)、「白い馬の見える風景」(新潮社)より
 
posted by Sachiko at 22:01 | Comment(2) | アート
2025年05月20日

色彩と明暗と

以前紹介した、ドイツの風景写真家キリアン・シェーンベルガー。
まだ地球にはこんなに美しい風景があったのかと思わせる、しかも風景としての美にとどまらず、詩や物語や魂の深みに誘うような、独特の不思議な美しさがある。

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久しぶりにウェブサイトを訪ねてあちこち見ていたら、彼に色覚障害があると書かれていてビックリした。
あの美しい森の緑色が、彼には見えていない....?

https://kilianschoenberger.de/portfolio/waldfotografie/

色彩は風景に属していて、画家のように自分で色を作る必要はないので影響はないのだろうが...
色覚障害のある人は薄明時の視覚に優れていて、本人はそれはむしろ自身の強みだと言っている。

北欧では男性の10%ほどが色覚障害と言われている(日本では5%くらい)。
それについては以前何かの番組でこう説明していた。
強い太陽光に照らされ、動植物が鮮やかな色彩を持つ南の地域と違って、一年中太陽の光がぼんやりと弱い高緯度地域では、色彩を識別するよりもむしろ明暗に敏感なほうが生存に有利だったので、そちらの能力が発達したのではないか、という話だった。


機能的なことで言えば、視細胞には明るいところではたらく錐体と、暗いところではたらく杆体があり、錐体には赤、緑、青の波長をそれぞれ感知する三種類がある。
そのうちのどれかに欠損があると、それに相当する色が見えにくくなる。
ちなみに私の母方の家系には色覚障害の遺伝があり、従兄弟たちのほとんどがそうだ。

それも今は個性の一種とされて、昔学校で受けた色覚検査というものも今ではやらなくなったらしい。
一般には何でも人数の多い方がノーマルとされるわけで、もしも数が逆だったとしたら、鮮やかな色彩を見る人は、奇妙な知覚をする人という扱いになっていたかもしれない。


視細胞の状態とは関係なく、気質に関するこんな話もある。
多血質の人の描く絵はカラフルで、憂鬱質の人が描く絵は色味が少なく、色彩よりも明暗や光に対する感受性が高いのだとか。

これはわかる。私もカラフルポップな絵を描こうと思えば描けないことはないけれど、無理して自分でないものを演じるような居心地の悪さを感じる。

強い光で照らすことで見えるものもあれば、薄明の中でだけ見えるものもあるのだ。
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(2) | アート
2025年05月09日

オシラサマ

柳田邦男の『遠野物語』にも収録されている『オシラサマ』の話を最初に知ったのは中学生の時で、何かの雑誌に、木で作られた単純な形の馬の首に色とりどりの布を着物のように着せた像が祀られている写真が載っていた。

伝説では、ある農家の娘が馬と恋仲になったことを知って怒った父親が、馬を桑の木に吊るして殺し、その首をはねてしまう。
娘は馬の首にすがりついて嘆き悲しみ、やがて娘と馬の首はいっしょに昇天する。
ある晩父親の夢に娘が現われ、桑の木で自分たちの像を彫って祀ってくれるようにと告げた...という話だった。


人間と動物の異類婚姻譚は世界中にある。
メルヒェンではよく口をきく動物が出てくるが、その正体は動物そのものではなく魔法にかけられた王子である場合が多い。(擬人化された動物物語はまた別の話)

『かえるの王さま』の蛙、『雪白とばら紅』の黒熊、『ロバの王子』では王子は最初からロバの姿で生まれてくるが、お姫様と結婚して人間の姿に戻る。


日本では「鶴女房」など、動物が人間の姿をとることが多い。
狐や狸が人間に化ける話も多々ある。

人間界と動物界は、魂を共有している。
かつて、まだ自然の力が圧倒的に強かった時代、人間界と他の世界は今よりはるかに近く、互いに交差し合っていたのだ。


オシラサマの馬は、魔法にかけられたのでもなく人間に化けるわけでもない、最初から馬だ。
東北に行った時、文化財として保存されている〈南部曲がり家〉を見たことがある。L字型の造りになった家の、片側が人の住む主屋で、もう一方は厩になっている。
人と馬は家族のように、一つ屋根の下に住んでいてとても近い存在として暮らしていたのだろう。

 
posted by Sachiko at 16:50 | Comment(2) | 神話・伝説・民話
2025年05月03日

「ガチョウ番の娘」

グリム童話『ガチョウ番の娘』
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昔、夫を亡くした年とったお后がいました。
お后には美しい娘がいて、遠い国の王子と結婚することになり、お后は王女にふさわしい豪華なお嫁入りの品々を用意して侍女もひとり付けてやりました。
旅にはそれぞれの馬で行きますが、王女の馬はファラダという名で、話すことができる馬でした。

別れの時、お后はナイフで指を切り、白いハンカチの上に三滴の血を落として、途中で役に立つだろうからとそれを娘に渡しました。
旅に出ると侍女は高飛車な態度をとり、盃に水を汲んでほしいと頼む王女に、「自分で川から飲めばいい」と言い、王女が腹ばいになったとき、胸にしまったハンカチが落ちて川を流れて行ってしまいました。

これで王女が無力になったことを知った侍女は、馬と衣裳を自分のものと取り換えるように言い、王女になりすましてお城に入りました。
こうして本物の王女はガチョウ番の少年の手伝いをすることになりました。

偽の花嫁は、馬のファラダが何かしゃべるといけないと思い、馬の首を切り落とすように王子に頼みました。
それを知った王女は畜殺人に、馬の首を町の門に留めてほしいと言い、そのようになりました.....
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最後はすべてが明らかになり、侍女は裁きを受けてハッピーエンドになる。

白いハンカチの上の三滴の血というシンボルは、他の物語にも出てくる。
『白雪姫』では、お后が窓辺で指に針を刺し、雪の上に三滴の血が落ちる。
『ネズの木−または柏槇の話−』では、長いこと子どもをほしがっていた夫婦がいて、ある時妻が木の下でリンゴを剥いていて手を切ってしまい、雪の上に三滴の血が落ちる。

円卓の騎士のひとり、聖杯探求者のパルジファルの物語では、鷹が空から舞いおりてきて一羽の野鴨に傷を負わせ、血が三滴、雪の上に滴り落ちた、という描写がある。

三滴の赤い血のシンボルを、昔の人間はそのままで魂的に理解することができたらしい。
現代人は何もかも頭で解釈しようとし、頭が理解できないものはわけがわからないといって否定しがちだ。
雪の上の三滴の赤い血のイメージを、繰り返し魂に響かせていくと、やがて何かを語りかけてくるかもしれない。その言葉は明晰な頭の言語ではないだろう。


ところで王女が切られた馬の首に話しかけるところ、私は『遠野物語』のオシラサマ伝説を連想してしまったのだけれど、もちろん二つの物語には何の関係もなくストーリーも全く似ていない。

ただ、古い時代、人間と馬ははるかに密接な関係にあったことを思い起こさせる。全く違う話なので、オシラサマの話はまた別の時に。

https://fairyhillart.net/grimm1.html
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posted by Sachiko at 17:10 | Comment(2) | メルヒェン