2025年03月21日

春分を過ぎて

最低気温が氷点下を脱し、来週は最高気温も10度を超える日がありそうで、とうとう春だ。

昼と夜の時間が等しくなるこの時期をお彼岸というのは、彼岸と此岸の境目が薄くなり、ふたつの岸が近くなるからだが、こういうことはどの文化圏でもどこか似通ったものがある。

夜明けや日没の、昼と夜の境目は、妖精が見えやすい時間帯だという。
アイルランドの伝承では家の妖精は玄関の敷居に棲むと言われるが、これも内と外の“境目”だ。

ウィッカ(自然魔術)においては、春分と秋分の祝祭は比較的新しく取り入れられたもので、それらは南方発祥の儀式だそうだ。
春という言葉で最も美しいのはイタリア語の“プリマヴェーラ”だと言った人がいた。
たしかに“プリマヴェーラ”と聞くと、ボッティチェリの「春」が浮かび、ヴィヴァルディの「春」が鳴りだす。歌い上げるようなイタリアの春は美しいだろう。


私はやはり、うず高く積もった雪の山が小さくなり、ある日地面から最初の芽が出ているのを見つけた時の気分がたまらない。
今年も最初の花、スノードロップが咲き出した。

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posted by Sachiko at 21:33 | Comment(2) | 季節・行事
2025年03月06日

二十四節気

3月、ひな祭りも過ぎて、昨日は啓蟄だった。
寒さが緩み、土の中に潜んでいた虫などの小さな生きものが目覚めて活動を始める頃...ということだが、それは本州の話で、こちらはまだもう少し雪が続きそうだ。

二十四節気をさらに分けて季節の折々の事象を表した、七十二候。
近いところでは、3月10日が“桃始笑”(ももはじめてさく)、3月15日は“菜虫化蝶”(なむしちょうとなる)....

これらの言葉は、私が数年来使っている「イン・ヤン・カレンダー」という、和暦と月の満ち欠けが載った小さなカレンダーに書かれている。
今はもう耳にすることもなくなった、季節の言葉たち。

四季折々の自然の変化や、毎日の月のフェイズは、昔の人の暮らしに溶け込んでいた。
そのことは無意識のうちにでも、人間が自然の一部であり、からだやこころが自然のリズムとともに生きていると感じられていたことだろう。


農作業は旧暦に沿って行うとうまくいくと言われている。
明治の初め頃まで使われていた太陰太陽暦は自然の理にかなったものだったが、社会が西洋化しその構造が変わるにつれて、いろいろ不都合が出てきたのだ。

今世界中で使われているグレゴリオ暦は、宇宙のリズムにも身体のリズムにも合っていないという。シュタイナーも、365というのは悪の数字であるとか言っていたような。

日本の新しい祝日などは、もはや社会の都合によってだけ決められている。(私は、祝祭日は基本、季節行事だけでいいと思っている。)

今の文明が終わり全く新しい世界が現われて、いつかまた改暦されることがあるだろうか。
太陽と月と星々と、季節の巡りと生きものたちのいとなみと....
もういちどそれらとともに、宇宙のリズムとも身体のリズムとも調和する時間の在り方が取り戻せたらいいな、と思う。

二十四節気、次は3月20日の春分で、これは大きな節目となる。
 
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posted by Sachiko at 22:01 | Comment(0) | 季節・行事
2025年02月21日

人間の天職としての美

この素晴らしい言葉は、ジョン・オドノヒュー(アイルランドの詩人・哲学者 2008年没)のHPで、他の人たちが彼へのオマージュとして書いた幾つかの文章の中にあるのを見つけた。

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「・・・彼は人間の天職としての美を唱えた。彼は極めてケルト的で、人間の内なる風景や、彼が「目に見えない世界」と呼ぶもの、そして私たちが知り、見ることのできるものと絶え間なく交錯するものに対して、生涯魅了されていた」
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人間の天職としての美.....

人生における使命というと、多くの人は何らかの職業を考えるかもしれないが、シュタイナーは「使命を考えるときには、職業的なものを考えないほどよい」と言っていた。
ドイツ語で職業は“Beruf”で、元々は「召し出し」を意味する。
地上の職業ではなく天の職、より高いところ--天からの召し出しとしての美。


美についてのエンデの次の言葉は、以前にも何度も書いていると思う。

「美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させます。
美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものです。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示します。」

イデアとしての美とひとつになる、それはまさに「召し出し」だ。
美が見えるところにいるなら、故郷への扉は開いている。
それぞれのこの世の人生がどんな姿をしていようと、人は常に源に招かれている。

美という天職があることを知るとき、深い安堵感が静かに満ちるだろう。
 
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 言の葉
2025年02月09日

ギムリの願い方

とても久しぶりに『指輪物語』から。

ガンダルフを失った旅の一行は、ロリエンの都に入った。
数日滞在したのち、出発の日にガラドリエルの奥方は、ひとりひとりにふさわしい贈り物を与える。

アラゴルンには緑色のエルフの宝石、ボロミアには金のベルト、メリーとピピンには小さな銀のベルト、レゴラスにはこの地のエルフの弓矢、サムにはガラドリエルの庭の土が入った小箱。

「してドワーフはどのような贈り物をエルフに所望されるだろうか?」

ギムリは何も所望せず、ガラドリエルに会えて言葉を頂けただけで十分と答えるが、ガラドリエルは、欲しいものがあるならそれを言うように命じる。

「・・・こんなお願いをすることを、いえ、お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら、奥方様のお髪を一筋いただけましたらと、存じます。
―――わたくしはこのような贈り物をいただきたいとは申しませぬ。ただわたくしの望みを口にするようにお命じになりましたので。」

エルフたちが驚く中、奥方は髪の毛を三本切り取ってギムリの手に置いた。

そして最後にフロドに光を集めた水晶の瓶を渡すと椅子を立ち、一行は船着場から小船に乗り込んだ。

旅の一行それぞれに贈り物が用意されていた中、なぜかギムリだけが望むものを言うように命じられる。
ギムリの答えは、望むのではなく、ただその望みを口にするだけ。

「お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら....」

そして、それは叶えられた。


人間、エルフ、ドワーフ、ホビット...
それぞれの種族から集められた旅の仲間の中で、私はドワーフのギムリにあまり関心を持っていなかったけれど、この願いの場面はなぜか印象に残っている。

ガラドリエルには、それぞれが必要とするもの、ふさわしいもの、役立つものが見えていた。が、ギムリの願いはそのようなものではなかった。

「・・・地上の金をことごとく集めても奥方様の髪の毛一筋には及びませぬ。」

一筋の髪は、ガラドリエルに対する、言葉にもかたちにも表しきれない最高の敬意と賛美の象徴なのであり、故にこの贈り物は、あらかじめ用意しておくことのできないものだったのだ。

ロリエンの地が見えなくなった後、ギムリは言った。

「わたしはいちばん美しいものの見おさめをしてきた。
これから後、わたしはいかなるものも美しいとは言うまい。奥方からいただいたこの贈り物をのぞいては。」


フォークロアの中のエルフやドワーフは、妖精や鉱山の小人として描かれるが、この『指輪物語』においてはどの種族も超自然的な存在ではなく、ある意味みんな「人間」である。

そしてファンタジーの語り口は、高貴なエルフも邪悪なオークも他のすべての存在も、壮大なタペストリーの中の欠かせない図柄の一部として物語を彩らせる。
 
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | ファンタジー