2020年10月30日

Samhain

明日はハロウィン。
ハロウィンの起源はケルト暦のSamhain、これはサムハイン、サマイン、サウェン、サウィン、ソーウィンなどと呼ばれ、どれが正確な読み方なのかわからない。

日本語では発音しにくいのかもしれない(google翻訳の音声で聞いてみたら、サウェンとソーウィンの中間くらいの音だった)。

ケルトの一年の輪の中で、光の半年(夏)から闇の半年(冬)に移る境界の日だ。ケルト暦では新年は11月1日から始まるので、Samhainはいわば大晦日にあたる。

元々は、作物の時である夏(女神の季節)から、狩りの時である冬(男神の季節)へ転換するしるしの日だったそうだ。

「ANAM CARA」にも述べられているように、ケルトの世界観は円環にある。
純粋なケルト民族は失われてしまったけれど、その文化は西欧の自然魔術の中にひっそり継承されている。

近年のケルト回帰は、輪を描く自然の時間への希求が強まっていることの現れだろうか。
光と闇、夏と冬・・・対照的なものも、円環の上で交代しながら廻り、対立しない。

そのように、輪の時間は体になじむ人間本来の時間の姿で、ケルトの自然観や死生観は、日本人には親しいものに思える。


明日31日は満月。ハロウィンが満月に当たるというのはとても珍しいらしく、しかも今月二度目の満月でブルームーンだ。
月の右側には、まだマイナス2等級の明るさを保っている火星が見える。火星はこれからしだいに地球から遠ざかっていく。
  
posted by Sachiko at 22:09 | Comment(0) | ケルト
2020年10月28日

「ユニコーンと海」

「ユニコーンと海」(フィオナ・ムーディー)
とても古いけれど、秀逸な絵本。

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あらすじ
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昔あるところにユニコーンがいました。
ユニコーンは泳ぐことができなかったので、水のそばに行かないよう気をつけていました。

ユニコーンは、自分にはミツバチやヤギやメンドリのように、しなければならない仕事がないことを悲しく思っていました。

ある晩、助けを呼ぶ声が聞こえてきました。
ハルピュイア(※ギリシャ神話の、人間の頭と鳥の身体を持つ怪物)にさらわれた、海の王の娘のウラが、岩の上からさけんでいたのです。
これまで誰かから助けを求められたことのないユニコーンは、勇気がわいてきました。

ハルピュイアは海の国を乗っとろうとしていたのです。
娘が助かったことを知らない王さまが、ハルピュイアに降参してしまうまえに、海へ帰らなくてはなりません。

ユニコーンはウラを背中に乗せて走り続け、ようやく海岸に着きましたが、小さいウラはひとりで沖まで泳いでいくことができません。
でもユニコーンは泳げないのです.....

それでも海へ飛び込んだユニコーンは、水の中を走るうちにいつしか泳げるようになっていました。
ウラの姿を見つけた王さまは力を取り戻し、ユニコーンの勇姿に驚いたハルピュイアたちは逃げていきました。

ウラは、力尽きたユニコーンが海の底へ沈んでいこうとしているのに気づきました。
「パパ、私をたすけてくれたユニコーンが死んでしまう!」

王さまは宣言しました。
「われわれの友人のユニコーンを、兄弟のようにむかえようじゃないか。かれはこの国で、海のなかまとして生きるのだ」

そしてもし陸に帰りたくなったときには、ユニコーンに戻れることになり、ユニコーンは海の一角くじらとして生まれ変わったのでした.....

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ユニコーンという存在は魅力的だ。
実際に見た人はいないのに(たぶん)、それがどんな姿をしたどんな存在なのかを生き生きと思い浮かべることができる。

一方、実在する一角クジラの角は、まるで絵に描かれたユニコーンの角にそっくりで、地球生物の造化の妙には驚く。

ユニコーンは神話や物語の世界の生きものだから、地上をどこまで旅しても見つけることはできない。
でも魂の内側に旅をするなら、ユニコーンの棲む世界は、人間と共有されていて地続きだ。

そして人間は、ときどきその世界に旅をして、ユニコーンや、地上に降りなかった他の存在たちに出会うことが必要なのだと思う。

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posted by Sachiko at 22:42 | Comment(2) | 絵本
2020年10月26日

秋虹

例年のことながら10月の天気は不安定だ。
天気予報では今日は曇りのはずだったのに、しばらく晴れていたかと思えば突然雨が降り出し、また晴れたと思うと雨、目まぐるしく変わる。
こういう天気の時は虹を探しやすい。

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「秋虹」または「秋の虹」は、季語になっているらしい。
秋の淡くはかない虹を指すのだが、今日の虹は鮮やかなダブルレインボーだった。(外虹はうまく写真に写らなかった...)

昔何かの本に、虹を見たら「カルペ・ディエム」と唱えるとよい、と書かれていた。ラテン語で「一日を摘め」(この瞬間を大切に)という意味だそうだ。
虹は日常の中に入り込む天界からの贈りもののようで、見ると一瞬別次元に引き上げられる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:09 | Comment(0) | 自然
2020年10月24日

強すぎる光

「ANAM CARA -- A Book of CELTIC WISDOM」(John O'Donohue)より。

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現代人は、かつてないほど霊的に飢えている。
人々はますます内なる世界に目覚め、永遠なるものへの飢えと渇きが魂の内に沸き起こっている。これが新しい意識の形なのだ。

しかしながら、この霊的な飢餓の有害な側面のひとつは、強烈で執拗な光ですべてを照らし見るというやり方にある。

現代人の意識は穏やかでも敬虔でもなく、神秘に対する配慮なくして未知なるものを暴きだし、支配しようとする。

どぎつい光は、魂の翳りの世界に寄り添うには、あまりに直接的で明晰すぎる。それは秘めやかに隠されたものに対する礼を欠いている。
ケルト人の精神は、個々の魂の深みと神秘に対する敬意をわきまえていた。

魂はすべてを露わにさらけ出すようには作られていない。むしろ薄明りの中にあることを心地よく感じる。

電気がなかった頃、人々は蝋燭の灯りで夜を過ごした。
蝋燭の灯りは闇に親しむ理想の光であり、そっと暗闇に洞を開けて、想像力の活動を促す。

蝋燭の灯りは魂の神秘と自律に敬意をはらい、ふさわしい仕方で照らすことを心得ている。
その灯りは入口にたたずむ。光は聖所に踏み入る必要はなく、そうしようとも思わない。

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以前書いた、アイルランドの妖精話に出てくる話を思い出す。
アイルランドの隅々まで電気が普及して以降、妖精にまつわる体験談が急速に消えていった、という。

強い光のもとでは神秘がかき消されてしまう。これはまさに現代人の魂にとっての危機である。
“薄明り”は、ケルト文化のキーワードのひとつのようだ。

ウィリアム・バトラー・イエイツの「ケルトの薄明」(The Celtic Twilight)という本がある。
土地の語り部である老人から採話された、妖精や幽霊、不思議なものたちの物語にイエイツが編集を加えたものだ。

妖精たちは、薄明りの中の住人に違いない。
彼らは人間の魂の、秘めた暗がりに親しいものたちで、蝋燭の灯りのもとで語り継がれるのがふさわしかっただろう。

強い光で照らすことで、すべてが見えるようになるとは限らない。
薄明りの中、繊細な魂が敬意をもってそっと触れることでしか見えないものが確かにあるのだ。
  
posted by Sachiko at 21:15 | Comment(2) | ケルト
2020年10月21日

秋の火

秋という字には、火が入っている。
木々が紅葉することから来ているのだろうが、自然界が燃焼するのは夏で、秋はそのあとの灰の季節なのだそうだ。

季節の気分というものは、言葉にしがたいけれど確かにある。
秋の湿った土から立ち昇る冷気は、落ち葉が分解していく独特の香りを運ぶ。

それらも、立ち止まって感じようとしなければ、日常の慌ただしさの中で気づかずに通り過ぎてしまうだろう。

秋の夕刻に蝋燭(キャンドルよりこう呼びたい)に火を灯すと、季節の気分はいっそう色濃く浮かび上がる。

かつて暮らしの中には生きた火があり、炉辺の物語は、年長の人々から生きた声で語り伝えられた。

都会生活からはいつの間にか、ほんとうに生きているものがとても少なくなってしまった。

自然霊たちは、人間の意識を必要としている。
世界各地の大規模な山火事などは、人間とのつながりを失ったサラマンダーの嘆きの叫びではないのかと思う。

地水火風が自然界の構成要素なら、それは当然、自然の一部である人間自身の構成要素でもある。

それらが調和のとれた姿をしていることは、人間社会のためだけでなく、宇宙的なバランスのために必要なのだ。

秋、せめて小さな火を見つめ、耳を傾けてみる。

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posted by Sachiko at 22:15 | Comment(4) | 季節・行事