先日、こんな言葉が飛びこんできた。
怪物と闘う者は、自らも怪物と化さぬように心せよ
おまえが深淵を覗くとき、深淵もまたおまえを覗いている
(ニーチェ『善悪の彼岸』より)
一瞬ある映像が浮かんだ。
ロード・オブ・ザ・リングで、指輪をはめたフロドが幽界のような場所で冥王サウロンの目に捉えられるシーンだ。
「悪と戦うにはまず相手を知らなければならない、そのために悪の研究をする必要がある。」
そのようなことを言ってミイラ取りがミイラになった例は少なくない。
『指輪物語』の、白のサルーマン(サルマン)のように。
※私が持っている指輪物語は旧版なので、幾つかの地名や人名の表記が新版と違っている。
サルーマン(サルマン)
ロリエン(ロリアン)
イセンガルド(アイゼンガルド)など。
「正義感をふりかざして何かを非難糾弾する時、その人は悪魔に魂を売っている」
「自分こそは正しい善人でありたいという欲求が、最も利己的な欲求である。」
(R・シュタイナー)
最初はビックリする過激な言葉だと思ったけれど、これらもまた怪物と闘おうとする人への警告でもあるのだと思う。
現代人である以上、悪と無縁な人はいないと、シュタイナーは繰り返し言った。
たとえ無意識でいても、あるいは善き意図を持っていたとしても、人は確実に、見るもの触れるものの影響を受ける。
自分は正しい側で大丈夫という慢心は、防護服なしに放射能汚染区域に入り込むようなことに見える。
肉体にとっての防護服に相当するものを、霊的魂的にもまとう。
ガラドリエルの玻璃瓶や、天上の星を見上げる心が、モルドールの闇の中でサムを護ったように。
深淵を見つめなければならないなら(つまりは内なる深淵だ)、同時に、花を見て日の光を浴び、魂の薬である美の中を歩こう。
先のニーチェの言葉は、まさにこの時代に必要な認識だと思える。
今日は夕方に大きな虹が架かった。
2021年05月29日
深淵を覗き込む者は
posted by Sachiko at 22:24
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| 言の葉
2021年05月25日
注文の多い天使の話
もうずいぶん前のことだけれど、SNS上の一部で、願いを叶えてくれる天使のイベントのことが話題になっていた。参加するには友だちから招待メールをもらわなくてはいけないらしかった。
元はドイツの霊能者の女性から伝えられたもので、お願いを聞いてもらえる期日と時間帯が決まっていて、願い事はひとり3つまでだそうだ。
さらに、同じ文面で3人の友だちにメールを回さなくてはいけないそうだ。
少し経って私のところにも招待メールが来た。
なになに....その時間には(夜中じゃないか!)キャンドルを灯して、何色の花を飾って、お祈りをして...と、ずいぶん注文の多い天使だな。
メールをくれた人も、「ミラクルが起きた人がいるんですって!」と、何だかハイテンションになっている。
これ、何かに似ている....
そうだ、スーパーのタイムセールだ。
「〇時から〇時まで、お一人様何個限り!」
タイムセールをするのは、時間制限や個数制限がついていると購買意欲を煽られて、ぜひ必要ではない物も今買わなければいけないような気分になってしまうからだ。
しかし...そんな人間の性質など知り尽くしているはずの天使が、あえて欲望を刺激するような形で接触してくるものだろうか?
天使は人間界のような時間の流れの中ではなく、永遠の中を生きているのだという。そして、人間の自由意志を最大限尊重しているのだ。
だとしたら、頼んでもいないのに「願いを叶えてあげます」って、『笑ゥせぇるすまん』か?などと思ったが、まあこういうお遊びには素直に乗ったほうが楽しいかもしれない。
でももうひとつ既視感があった。
私が子どもの頃周期的にはやっていた、「幸福の手紙」とか「不幸の手紙」とかいうものだ(あの頃はハガキだった)。
当時の記憶をたどると、たしか始めたのはアメリカの女性で、同じ文面のハガキを7人の友だちに送ってください、とかいうものだった。
最初は幸福の手紙だったが、「もしあなたのところで止めると不幸になります」という脅迫文が付いてからは不幸の手紙と呼ばれるようになった。
それにしてもなぜいつも発祥は欧米系の女性なのだろう。
「埼玉の花子さんが始めました」ではいけないのか?
この種のものは、たいていの人が自分のところで止めている。
そうでなければあっという間に世界の全員に行き渡っているはずだ。
チェーンメールはその後どうなったのか、ミラクルが起きた人はいたのか、ぱったり話を聞かなくなってその騒ぎは終わった。
後になって何かの本で、残念ながら今の時代はルシファーの手下になってしまった天使たちもいる、という話を読んだ。
注文の多いタイムセール天使が結局何だったのかはわからない。
世の中が騒がしく、ありとあらゆる玉石混交の情報(意見)が飛び交う昨今、ふとあの天使の話を思い出したのだった。
元はドイツの霊能者の女性から伝えられたもので、お願いを聞いてもらえる期日と時間帯が決まっていて、願い事はひとり3つまでだそうだ。
さらに、同じ文面で3人の友だちにメールを回さなくてはいけないそうだ。
少し経って私のところにも招待メールが来た。
なになに....その時間には(夜中じゃないか!)キャンドルを灯して、何色の花を飾って、お祈りをして...と、ずいぶん注文の多い天使だな。
メールをくれた人も、「ミラクルが起きた人がいるんですって!」と、何だかハイテンションになっている。
これ、何かに似ている....
そうだ、スーパーのタイムセールだ。
「〇時から〇時まで、お一人様何個限り!」
タイムセールをするのは、時間制限や個数制限がついていると購買意欲を煽られて、ぜひ必要ではない物も今買わなければいけないような気分になってしまうからだ。
しかし...そんな人間の性質など知り尽くしているはずの天使が、あえて欲望を刺激するような形で接触してくるものだろうか?
天使は人間界のような時間の流れの中ではなく、永遠の中を生きているのだという。そして、人間の自由意志を最大限尊重しているのだ。
だとしたら、頼んでもいないのに「願いを叶えてあげます」って、『笑ゥせぇるすまん』か?などと思ったが、まあこういうお遊びには素直に乗ったほうが楽しいかもしれない。
でももうひとつ既視感があった。
私が子どもの頃周期的にはやっていた、「幸福の手紙」とか「不幸の手紙」とかいうものだ(あの頃はハガキだった)。
当時の記憶をたどると、たしか始めたのはアメリカの女性で、同じ文面のハガキを7人の友だちに送ってください、とかいうものだった。
最初は幸福の手紙だったが、「もしあなたのところで止めると不幸になります」という脅迫文が付いてからは不幸の手紙と呼ばれるようになった。
それにしてもなぜいつも発祥は欧米系の女性なのだろう。
「埼玉の花子さんが始めました」ではいけないのか?
この種のものは、たいていの人が自分のところで止めている。
そうでなければあっという間に世界の全員に行き渡っているはずだ。
チェーンメールはその後どうなったのか、ミラクルが起きた人はいたのか、ぱったり話を聞かなくなってその騒ぎは終わった。
後になって何かの本で、残念ながら今の時代はルシファーの手下になってしまった天使たちもいる、という話を読んだ。
注文の多いタイムセール天使が結局何だったのかはわからない。
世の中が騒がしく、ありとあらゆる玉石混交の情報(意見)が飛び交う昨今、ふとあの天使の話を思い出したのだった。
posted by Sachiko at 22:45
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2021年05月22日
ワードローブの扉
〈ルーシィはそのさきのたんすのうしろがわに、おでこをぶつけないように、手をのばしておきました。
・・・
きっと指さきが、うしろの板じきりにさわる、と思ったのですが.....さわりませんでした。〉
ナルニアへ続くあのワードローブの扉は、どこでもドアではない。
どこでもドアはいつでも使えるが(ドラえもんがそれを出してくれさえすれば)、ナルニアへの通路はいつもそこにあるとは限らない。
戻ってきたルーシィがきょうだいたちを連れて行こうとしたときのように、ワードローブの背板にぶつかるだけのこともある。
ナルニアへの道は、ワードローブだけではなかった。
ある時は部屋の壁にかかった絵だったり、鉄道駅のホームだったりした。
他のファンタジー同様、“ちょうどいいときに”通路は開くのだ。
私が『ナルニア国ものがたり』を最初に読んだのは高校生のときで、こんなすごい物語があったのか!とかなり興奮して読んだのだが、その時はやはり、邪神を信じる砂漠の向こうの国カロールメンの描写が、あからさまにイスラム圏を連想させることが引っかかった。
もし小学生の時に読んでいたら、そんなことは全く考えなかっただろう。物語は、それを読む年代によって、また時代によって、見え方が違ってくるものだ。
かつてナルニアの女王にまでなったスーザンが、後に“ファンタージエンに行けない人”になってしまったことも幾らか腑に落ちないけれど、人はある時期そういうこともある。
人生の半ばは、人間が最も下降して地上的になる時期だという。
スーザンのように口紅やパーティのことではなくても、仕事や教育費やローンやあれやこれや。ファンタージエンからは遥か遠いところにいる。
ナルニアファミリーが全員そろって「新しきナルニア」に行ってめでたしめでたし...ではないことで、むしろ物語は深くなっているのかもしれない。
そうすると、取り残されたスーザンはある役割を担っているようにも見える。
人生の不思議な転機というものは、どこかワードローブの扉に似ている。
それは思いがけないときに不意に開くが、ほとんどの場合、期待したり計画や計算をしない時に、見えない何かの采配によって訪れる。
まさに“ちょうどいいときに”、何の変哲もない場所が、線路のポイントが切り替わるように別の現実へ動いて行ったりするのだ。
だとすれば、地上の人生それ自体も、壮大なファンタジーの法則に沿っているのだろう。
・・・
きっと指さきが、うしろの板じきりにさわる、と思ったのですが.....さわりませんでした。〉
ナルニアへ続くあのワードローブの扉は、どこでもドアではない。
どこでもドアはいつでも使えるが(ドラえもんがそれを出してくれさえすれば)、ナルニアへの通路はいつもそこにあるとは限らない。
戻ってきたルーシィがきょうだいたちを連れて行こうとしたときのように、ワードローブの背板にぶつかるだけのこともある。
ナルニアへの道は、ワードローブだけではなかった。
ある時は部屋の壁にかかった絵だったり、鉄道駅のホームだったりした。
他のファンタジー同様、“ちょうどいいときに”通路は開くのだ。
私が『ナルニア国ものがたり』を最初に読んだのは高校生のときで、こんなすごい物語があったのか!とかなり興奮して読んだのだが、その時はやはり、邪神を信じる砂漠の向こうの国カロールメンの描写が、あからさまにイスラム圏を連想させることが引っかかった。
もし小学生の時に読んでいたら、そんなことは全く考えなかっただろう。物語は、それを読む年代によって、また時代によって、見え方が違ってくるものだ。
かつてナルニアの女王にまでなったスーザンが、後に“ファンタージエンに行けない人”になってしまったことも幾らか腑に落ちないけれど、人はある時期そういうこともある。
人生の半ばは、人間が最も下降して地上的になる時期だという。
スーザンのように口紅やパーティのことではなくても、仕事や教育費やローンやあれやこれや。ファンタージエンからは遥か遠いところにいる。
ナルニアファミリーが全員そろって「新しきナルニア」に行ってめでたしめでたし...ではないことで、むしろ物語は深くなっているのかもしれない。
そうすると、取り残されたスーザンはある役割を担っているようにも見える。
人生の不思議な転機というものは、どこかワードローブの扉に似ている。
それは思いがけないときに不意に開くが、ほとんどの場合、期待したり計画や計算をしない時に、見えない何かの采配によって訪れる。
まさに“ちょうどいいときに”、何の変哲もない場所が、線路のポイントが切り替わるように別の現実へ動いて行ったりするのだ。
だとすれば、地上の人生それ自体も、壮大なファンタジーの法則に沿っているのだろう。
posted by Sachiko at 22:43
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| ファンタジー
2021年05月19日
ライラックの伝説
最後に雪が降ってから40日。季節は初夏になり、ライラックもほぼ満開になった。

最近手に入れた『A Dictionary of PLANT LORE(植物伝承辞典・オックスフォード大学出版局刊)』という本では、ライラックについて、「花の咲いたライラックを屋内に持ち込むと不幸をもたらすと広く信じられていた」とある。
イギリス各地で採取された幾つかのエピソードが載っているが、なぜそう言い伝えられているのか、大元のところはよくわからない。
病人にとっては香りが強すぎるとか、ミツバチはライラックを好まないとか、ライラックの花が咲いている時期に仔牛を買ってはいけない、などという話もある。
家に持ち込んではいけない花としては、先日書いたサンザシやスノードロップがある。
いずれも、イギリスの一部の地方での言い伝えらしい。
一方で、庭にライラックがあるのは幸せな家庭のしるし、という説もある。これを採用することにしよう。
ところでこの本は古本で購入したので、あちこちに小さな書き込みがあり、中表紙には日付とともに、From mum and dad と書かれている。
元の持ち主は両親からのプレゼントを売ったようだ....(~_~;

最近手に入れた『A Dictionary of PLANT LORE(植物伝承辞典・オックスフォード大学出版局刊)』という本では、ライラックについて、「花の咲いたライラックを屋内に持ち込むと不幸をもたらすと広く信じられていた」とある。
イギリス各地で採取された幾つかのエピソードが載っているが、なぜそう言い伝えられているのか、大元のところはよくわからない。
病人にとっては香りが強すぎるとか、ミツバチはライラックを好まないとか、ライラックの花が咲いている時期に仔牛を買ってはいけない、などという話もある。
家に持ち込んではいけない花としては、先日書いたサンザシやスノードロップがある。
いずれも、イギリスの一部の地方での言い伝えらしい。
一方で、庭にライラックがあるのは幸せな家庭のしるし、という説もある。これを採用することにしよう。
ところでこの本は古本で購入したので、あちこちに小さな書き込みがあり、中表紙には日付とともに、From mum and dad と書かれている。
元の持ち主は両親からのプレゼントを売ったようだ....(~_~;
posted by Sachiko at 22:20
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| 樹木
2021年05月16日
生活者スナフキン
ムーミンが初めてスナフキンに会ったのは、シリーズの最初の巻『ムーミン谷の彗星』で、スニフといっしょにおさびし山の天文台へ旅にでかけた時だった。
アニメ版ではフローレンという名がついているスノークのお嬢さんに出会うのもこの巻だ。
『ムーミン谷の彗星』はあまり読み返すことがなかったけれど、久しぶりに手に取って、些細なことに気がついた。
川岸に張ったテントの中からハーモニカの音がして、ムーミンが声をかけるとスナフキンが現われる。
スナフキンは火を起こして、スニフが持っていたコーヒーを沸かす。
今日はたまたまここにいて、明日はまたどこかへ行くのだと、コーヒーカップを三つ出しながらスナフキンが言った。
・・・なるべく物を持たず、身軽な旅を好むスナフキンが、来客用のコーヒーカップを持っているんだ....
この時のスナフキンは、ムーミンとスニフを歓待し、彗星の話をして、ハーモニカを吹き、ガーネットの谷間へ散歩に誘う。
スナフキンは二人に音楽を聞かせ、カード遊びや魚釣りを教え、途方もない話をし、おかげで旅は楽しいものになった。
・・・スナフキンは、遊び用のカードも持っているんだ....
そして、おもしろい話をせがむスニフに火山の話を聞かせたりする。それも、けっこう長い話なのだ。
ガーネットが輝く谷間で、スニフが言った。
「あれがみな、きみのものなの?」
「ぼくが、ここに住んでいるうちはね。じぶんで、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな。」
スナフキンのもうひとつの名言も、この巻にある。
「ものは、自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうがふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり....。
ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。」
体験され、自分の中に取り込まれたものだけが、ほんとうに自分のものになる。外側に保存したものと違ってそれだけが、死ぬ時にも持っていけるものだ。
スナフキンは、一方で必要なものを必要な時に、なぜかちゃんと持っているのだが、それがなくなっても執着しない。
定住はしないけれど、ある意味、ムーミンママ同様、生活の達人かもしれない。
孤独を愛するというスナフキンは、騒がしく面倒な人たちを煩わしく感じるとしても、人そのものがきらいなわけではない。
この巻ではむしろかなり饒舌で、ムーミンたちとの旅を楽しんでいるのだ。
終わりのほうで、スナフキンがハーモニカで子守歌を吹き、それに合わせてムーミンママが静かに歌うシーンは美しい。
アニメ版ではフローレンという名がついているスノークのお嬢さんに出会うのもこの巻だ。
『ムーミン谷の彗星』はあまり読み返すことがなかったけれど、久しぶりに手に取って、些細なことに気がついた。
川岸に張ったテントの中からハーモニカの音がして、ムーミンが声をかけるとスナフキンが現われる。
スナフキンは火を起こして、スニフが持っていたコーヒーを沸かす。
今日はたまたまここにいて、明日はまたどこかへ行くのだと、コーヒーカップを三つ出しながらスナフキンが言った。
・・・なるべく物を持たず、身軽な旅を好むスナフキンが、来客用のコーヒーカップを持っているんだ....
この時のスナフキンは、ムーミンとスニフを歓待し、彗星の話をして、ハーモニカを吹き、ガーネットの谷間へ散歩に誘う。
スナフキンは二人に音楽を聞かせ、カード遊びや魚釣りを教え、途方もない話をし、おかげで旅は楽しいものになった。
・・・スナフキンは、遊び用のカードも持っているんだ....
そして、おもしろい話をせがむスニフに火山の話を聞かせたりする。それも、けっこう長い話なのだ。
ガーネットが輝く谷間で、スニフが言った。
「あれがみな、きみのものなの?」
「ぼくが、ここに住んでいるうちはね。じぶんで、きれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。その気になれば、世界中でもな。」
スナフキンのもうひとつの名言も、この巻にある。
「ものは、自分のものにしたくなったとたんに、あらゆるめんどうがふりかかってくるものさ。運んだり番をしたり....。
ぼくは、なんであろうと、見るだけにしている。立ち去る時には、全部、この頭にしまっていくんだ。そのほうが、かばんを、うんうんいいながら運ぶより、ずっと快適だからね。」
体験され、自分の中に取り込まれたものだけが、ほんとうに自分のものになる。外側に保存したものと違ってそれだけが、死ぬ時にも持っていけるものだ。
スナフキンは、一方で必要なものを必要な時に、なぜかちゃんと持っているのだが、それがなくなっても執着しない。
定住はしないけれど、ある意味、ムーミンママ同様、生活の達人かもしれない。
孤独を愛するというスナフキンは、騒がしく面倒な人たちを煩わしく感じるとしても、人そのものがきらいなわけではない。
この巻ではむしろかなり饒舌で、ムーミンたちとの旅を楽しんでいるのだ。
終わりのほうで、スナフキンがハーモニカで子守歌を吹き、それに合わせてムーミンママが静かに歌うシーンは美しい。
posted by Sachiko at 22:37
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| ムーミン谷