2021年06月29日

「華氏451度」・3

1953年に書かれた「華氏451度」は、とても今日的であると同時に、まだシンプルに見える。
同様のテーマが、現在ではこのSFよりも遥かに入り組んで巧妙になっている。

死と悲しみのタブー。ミルドレッドは4日前のクラリスの死を“忘れて”いた。死と、それに付随する悲しみのことなど考えたくないのだ。

現代日本ではいつからか、「明るい」ことが脅迫的に礼賛されるようになった。影、闇、悪はタブーで、「ネガティブ」として忌み嫌われ排除される。

そうすれば明るい半分だけが残るのか?そんなことはない。それらはコインの両面だから。

影を排除しようとしてコインの裏側を削り落としても、新たな裏ができるだけで、排除したはずのものはやがて怪物となって反逆してくるだろう。
そうして裏を排除するたびに、コインは薄っぺらくなる。

モンターグの妻ミルドレッドは、まさにそのような姿に描かれている。
テレビや車のスピードという刹那的な娯楽や刺激に溺れているが、娯楽はけっして幸福の代わりにはならない。

そしてこのミルドレッドの姿が、ディストピアにおいては望ましい(都合のよい)人間像でもあるのだ。


本を禁じ、つまりは深く考えを巡らせたり、じっくり生を味わったりすることを許さない社会。
反知性主義のディストピアとして描かれているが、この知性とは、知識クイズに反射的に答えるような知性とは別のことだろう。

クラリスは学校へ行っていなかったし、雨を味わうクラリスの知性はむしろ智恵の領域だ。
華氏451度の世界、まるでどこかの世界にそっくりではないだろうか?


重要なのは「本(つまり紙の)」そのものではなく「内容」だという話が出てくるが....これには私は異論がある。
紙の本でもkindleでも「内容」は同じだ。

重さ、大きさ、紙質、手触り、装丁....
紙の色や匂いは年月を経て変化していく。
古い本は、それを買った店も、どの棚にあったのかも憶えている。

それらを総合したものが本だ。kindleは紙の本より記憶に残りにくいという研究結果もある。

内容以外の違いは何か。
“五感”を使うことと、“個性”が加わることだ。
それは空間を拡げ、本はその人だけの物語空間に含まれていく。

はからずも本の話になった。
本は受け身では読めない。双方向テレビよりも、実はもっと双方向的で、本は自分を映す鏡になる。

以前ミヒャエル・エンデが、「一冊の本を二人の人が読むと、それは違う本になる」と言ったのはそういうことだ。
鏡なら、その前に立つ人が違えば、違う姿を映し出す。

もっとも印刷されて量産された本というものも、かつてはハイテクの産物だった。その前は写本や口伝だったのだから。
  
posted by Sachiko at 22:48 | Comment(2) | SF
2021年06月26日

多次元の時間

夜8時頃、西北西の低空に金星が見えている。
−3.9等級で最大光度ではないが、十分宵の明星を楽しめる。
金星の左上には火星がある。こちらでは8時の西空はまだ薄明るいのでこれは見えにくい。


今年も数種類の植物を種から育てている。
毎日観察すれば生長と変化を知ることができるが、見ているあいだに動いていくわけではない。

高速度撮影とか微速度撮影という技術を使えば、星の動きや植物の生長、昆虫の飛翔などを、人間が知覚できる速さに変換できる。

星や植物や昆虫(この組み合わせは、なぜか私の中ではセットになる)は、人間の日常とは別の時間軸にいる。
そしてそれらの異なる時間軸は、人間自身にも内在している。

朝起きてから寝るまでのあれこれは日常の時間で、忙しい日常の意識の元にある。
星空を見上げたり、飛翔する昆虫を見るとき、別の次元が入り込む。

そのことは意識に語りかけてくる。
そこで意識の次元を変換できなければ、星も草木も虫も、見えないまま通り過ぎてしまい、それどころか“非現実的な世界”とさえ思えるかもしれない。


星や草花や鳥や虫たちの世界は人間の一部であり、人間は彼らの世界の一部だ。
総合体としての自分が見えなくなったときの人間がどれほど愚かしくなるかは、昨今の人間界を見ればわかる。


今日も快晴、空を見上げると、大きな鳥が堂々と滑空しながら旋回し、遠くへ飛び去っていった。それ自身であることの、何という尊厳。

彼らの生きる多層次元を含まない、人間だけの社会の貧しさ。
そういえば街をさまよっていた迷子のシカは無事に山へ帰っただろうか。

※別次元の時間にいざなう、こんな本を買ってしまった...

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posted by Sachiko at 22:13 | Comment(2) | 自然
2021年06月22日

「華氏451度」・2

この物語の舞台は、テクノロジーが媒介するコミュニケーションが主流の社会で、モンターグの妻ミルドレッドはテレビ中毒だ。

これはまさに現代のスマホ中毒に似ている。
映画版で、双方向の壁テレビの中の人物と会話する彼女の姿を覚えている。
モンターグとの関係は実質破綻し、ミルドレッドはテレビの中の仮想世界の人々を家族と呼ぶ。


反生命的、反魂的、非人格的という特性を持つ、まさにそれがディストピアだ。
象徴されるものが焚書でも時間どろぼうでも、土台は同じだ。

自然の生きものや季節に喜びを感じ、人と意味のある対話をしようとするクラリスは狂人扱いされ、実際に精神科に通って(通わされて)いる。
対照的に、ミルドレッドはスピード狂で、猛スピードで車を飛ばして野生動物を轢き殺すことに快楽を感じている。


このディストピアの特性を意識して現実社会を見ると....
数量思考、スピード重視、自然破壊、システム優先、人格軽視....

件の騒動で、何でもオンラインで済ませようという昨今、これを便利だと歓迎する向きもある。
遠くに住んでいる人、実際に会ったことのない人でも顔を見ながら話せるのは便利には違いない。

けれどその時見ているのはモニターの画面であり、聞いているのは肉声ではなく、一旦電気信号に変換されて再生された声だ。
オンラインに慣れて“感覚”が鈍ってしまうと、その区別がつかなくなっていく気がする。

たとえ一度でも生身で会ったことのある人はまったく違う。
季節や場所、あたりの様子、いっしょに見たものや聞いたもの、共にしたお茶や食事、互いに放射し浸透しあうエーテル....
私はその人を知っている。


生身の感覚、生きた自然、豊かな魂、かけがえのないひとり。
それらを敵視する力はどこから来るものなのか。

自然は急がない。駆り立てられず、ゆったりと巡り、満ちている。
どんなものにも影があるのなら、その影もまた、見据えられ、考えられるために立ち上がってくるのだろうか。
   
posted by Sachiko at 22:34 | Comment(2) | SF
2021年06月18日

エゾシロチョウ

日本では北海道だけに生息するエゾシロチョウ。
しばらく前からかなり飛んでいたのだけれど、やっと写真を撮れた。

ezoshiro.jpg


モンシロチョウより大型で、鱗粉が少ないので翅に透明感がある。
年に一回、初夏にだけ羽化し、卵を産んで果てる。見られるのは今だけだ。

楚々とした風情の白い蝶だが、リンゴなどバラ科の木の葉を食草とし、大発生するので害虫扱いされているらしい。(うちの姫リンゴの葉を食い荒らしたのはコイツか...)

その姫リンゴの葉っぱに止まったところを写真に撮った。
ホシは現場に戻る.....
  
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | 自然
2021年06月15日

「華氏451度」

Eテレの「100分で名著」で、今月はレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を取り上げている。
華氏451度は、紙が自然発火する温度のことだ。

私が最初にこの本を読んだのは高校生の頃で、映画版も何度かテレビ放映されている。
(レイ・ブラッドベリといえば、私にとっては“青春のブラッドベリ”なのだが、その話はまた別の機会に。)

物語の舞台は近未来のある時代、本は有害な情報をもたらすものとされ読むことも所有することも禁じられていて、見つけしだい家ごと焼却される。
「ファイアマン」は消防ではなく焚書に携わる仕事で、そのファイアマンであるモンターグが主人公だ。

本が燃える様子に快感を覚え、仕事に誇りを持っているモンターグは、ある日隣家に越してきた17歳の少女クラリスと出会う。

「頭がイカレてるの」と自ら言うクラリスの話すことは奇妙だった。
朝の草むらにいっぱい溜まっている露のことや、月の中に見える人影のこと....

降ってくる雨に向かって口を開け、雨を味わうクラリスは、周りからは異端の変人扱いされていた。

いつの時代、どんな体制の中でも、異端は生まれてくるものらしい。
クラリスはモンターグの中の何かを変えていくが、間もなく事故死してしまう。事故という形をとった粛清のようだ。

もうひとり、本がいっぱいの屋敷の中で本を読んでいる年老いた女性が登場する。
本と家を焼くために、モンターグは彼女を逃がそうとするが、それを拒んで彼女は本と共に焼かれることを選ぶ。
これらの人々との出会いによって、モンターグは少しずつ変わりはじめる。本とは何なのか....


この作品は、33歳のブラッドベリによって1953年に書かれたものだ。
テレビのほうもまだ最終回を迎えていないし(「100分で名著」第4回は6月21日放送)、どう見ても一度で書ききれないことがわかったので、この話はまだ続く。

まるで現代社会そのもののような「自発的に隷従するひとびと」というタイトルがついた第3回についてはもう少しじっくり時間を割きたい。


シュタイナーはある時、「将来、人間には肉体のほかに魂もあると考える人々が精神病院に入れられるような時代が来る」という可能性について警告していたらしい。

草むらにたまっている朝露(大好きなのだけど)のことなどうっかり口走ると、通報されて捕まるような時代が来るかもな...と思ったり、でもそうなる時にはこのブログも強制削除されていることだろう。
  
posted by Sachiko at 22:04 | Comment(2) | SF