2021年07月30日

「華氏451度」・7

仕事に戻ったモンターグが通報を受けて出動した先は、本を隠し持っていたモンターグ自身の家だった。
ベイティーの命令で彼は家を焼き払うが、最後には挑発するベイティーに火炎放射器を向ける。

犯罪者になったモンターグは再びフェーバーを訪ねて逃げ道を教えてもらい、たどり着いた先には、自然の香りが満ちている土地があった.....


小説版と映画版ではラストがかなり違っていて、私は映画版が印象に残っている。

ひとりの人間が一冊の本になり、自分の記憶の中にそれを保存している世界。彼らは「ブックピープル」と呼ばれる。

老人が孫に自分の「本」を引き継いでもらうべく口承しているシーンや、ブックピープルたちがそれぞれ自分の「本」を、忘れないように暗唱しながら行き交う光景。

人々が一体化している本はほとんどが、時代を超えて読み継がれるような文学や哲学、宗教書だ。

人が統計的データとして記号化されてしまわないように、言葉を生き、物語を生きる必要がある。
たとえ本を丸暗記しなくても、ひとりの人間はオリジナルな自分自身の物語なのだ。


人は舞台を観るときには神の目で見る、と言ったのはミヒャエル・エンデだったか...
舞台の上の物語はこの世の道徳律とは別の法則の元にある。

舞台上でオセロがデズデモーナを絞殺しようとしても、観客は止めに駆けつける必要はない、観る人はその殺人も含めたすべてを、別の次元から見て受け入れる・・・という話だった。

(ただしあくまでも、劇場という特別な場所に出かけて舞台を観るという非日常次元において。テレビのように日常の中に入り込んでしまうと逆効果になる。)

舞台を観るように、人生の物語を神の目で見るならどうだろう。
悲劇も喜劇も平凡な日常も、それに同化して巻き込まれることなく味わうとき、この短い詩の一節のようになれたら美しい。

  いま響く 昔のしらべ

  幸も悲しみも歌となる (ゲーテ)
   
posted by Sachiko at 21:02 | Comment(0) | SF
2021年07月27日

「ちいさなもののいのり」

エリナー・ファージョンをもうひとつ。
これも詩で綴られている、「ちいさなもののいのり」。

pray.jpg


 かみさま どうぞ ちいさなものたちを おまもりください

このように祈られる小さなものたちは、まだ飛べない小さなひな鳥や、森に落ちた小さな種、小さな雨粒、生まれたばかりの仔羊、そのほかたくさんの小さな生き物たちすべて。

そして、ねむる前にお祈りをするちいさな子どもたち。
みんな、大きくしっかりと育つまで。

大きな木も、はじまりはひとつの小さな種。
動物たちも、はじめは小さな赤ちゃん。

どんな大きなものも、はじまりは小さい。
これらの小さなものは、大きく育った未来の姿をその中に含んでいる。

大きな宇宙も、最初は小さな種だったのだろうか。宇宙卵という説もある。

枕草子も思いだす。

…なにもなにも 小さきものはみなうつくし…

このちいさな詩の絵本の初版は1945年。
ちいさなものたちへの祈りが、ことさら必要だった頃だ。
  
posted by Sachiko at 21:56 | Comment(2) | 絵本
2021年07月24日

満月と土星接近

久しぶりの星ネタ。
今夜南東の空で、みずがめ座にいる満月と土星が接近しているのが見られる。
(図は22時頃の空)

fullmoon.gif

近くには明るい木星もある。
南南西の空にはサソリ座のアンタレス。

宮澤賢治の“星めぐりの歌”には、♪あかいめだまのさそり〜♪と歌われているが、アンタレスはさそりの目ではなく心臓の位置にある。

♪ひろげたわしのつばさ〜♪
満月の真上のほうには、わし座のアルタイル。こと座のベガはほとんど天頂にある。

今日は23時頃南中する夏の大三角形は、けっこう遅い時期まで見ることができる。オリオンが昇ってくる季節にもまだ西空に見えているのだ。

ちなみに星めぐりの歌が出てくるのは「双子の星」で、これも好きな作品だ。
  
posted by Sachiko at 15:23 | Comment(0) | 宇宙
2021年07月20日

「華氏451度」・6

まだ続く「華氏451度」。
モンターグは老婦人の家を燃やした時以降、仕事の度に少しずつ本を家に持ち帰っていた。
本を読むことの中には、何か重要なものがあるのかもしれない....

最後にもうひとりの人物、元大学教授のフェーバーが登場する。
彼は以前、本を持っているところをモンターグが見逃してやったのだ。
なぜ“元”なのかと言えば、大学が閉校になったからだ。

本を読むことが禁じられたこの時代の教育はどうなっていたのだろう。
本を読んで考えを巡らせ感情を味わうこととは対極のような、コンピュータによるデータ処理やプログラミングがメインになっていたのだろうか。


家を訪ねてきたモンターグに、フェーバーは語る。
彼はかつて焚書計画が進行していった時、声を上げる勇気を持てなかったことを悔いているのだ。

本そのものではなく内容が重要だと言ったのはフェーバーだ。
そして、本を読むことがもたらすゆっくりした時間と、能動的にものを考えること、それらが失われたのは必ずしもテレビのせいだけではなく、人々が自発的に読むのをやめてしまったからだ、とフェーバーは言う。


本は「言葉」で書かれている。
言葉は単なるコミュニケーションの道具だと考える人が今では多いらしい。
SNSなどで使われる略語でも、とりあえず意味は通じるかもしれないが.....それは、かつて言葉だったのが記号化されたものだ。

マックス・ピカートが『沈黙の世界』の中で書いている“騒音語”という言葉を思い出す。
人間という背景を失って記号化された言葉は、その騒音語ですらないものに解体されて見える。

現代語の記号化断片化のプロセスは、まさに華氏451度の世界に重なる。
「わたしの言葉」が、魂を伴わない、意味伝達のみの記号と化したとき、「わたし」は何者でどこにいるのだろう。
  
posted by Sachiko at 22:29 | Comment(2) | SF
2021年07月16日

「マローンおばさん」

イギリスの児童文学作家、エリナー・ファージョンの物語詩「「マローンおばさん」。

malone.jpg

森のそばで、マローンおばさんはひとりぼっちで貧しく暮らしていた。誰ひとりとして、様子をたずねたり心にかける人もいない。

雪深く静まり返った、ある冬の月曜日、弱ったスズメが窓をつついた。
おばさんは小鳥を中に入れてやり、胸に抱いてつぶやいた。

 「こんなによごれて
  
  つかれきって!

  あんたの居場所くらい

  ここにはあるよ」


火曜日の朝にはネコが、水曜日には6匹の子どもを連れたキツネが、木曜日にはロバが、金曜日にはクマがやってきた。
凍えていたりお腹をすかせていたり、疲れて傷ついた動物たち。

  おばさんは 粗布もずきんも 肩かけも、

  パンもお茶も----

  なにもかも 分けあたえた。

 「次から次へと

  家族が ふえた

  でも もう一ぴきぐらい

  居場所はあるよ」


土曜日の夜、ごはんの時間になってもおばさんは起きてこなかった。
動物たちはロバの背中にマローンおばさんを乗せて一晩中歩きつづけ、日曜日の朝に天国の門に着いた。

動物たちは、門番の聖ペテロさまに、貧しいマローンおばさんがみんなに居場所を与えてくれたことを話した。

目をさましたマローンおばさんに、聖ペテロさまは言った。

「あなたの居場所が、ここにありますよ」


本の後ろのほうには英語の原詩が載っている。
原題は「Mrs.Malone」なので、マローンおばさんにはひとりぼっちではなかった頃もあったのだ。

このような本によけいな解釈は野暮というものだけれど、動物はしばしば魂を表わす。
弱って傷ついた動物たちは、魂の一部ともとれる。
それらが受け入れられ、居場所を与えられて、みんないっしょに愛へ帰っていく...

全編詩で書かれたこの小さな本(実際に小さい。約17cm×12cm)は、ほんとうはとても大きい。まさに「内がわは外がわより大きい」のだ。

挿絵はエドワード・アーディゾーニ。
ファージョンの本ではおなじみで、他の画家は考えられないほど相性がいい。
  
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(2) | 絵本