2021年08月30日

蝶のいのち

日曜日の午後遅く、小型の夏アゲハが葉っぱに止まったままになっていた。
一度だけ翅を広げ、また閉じて、何時間も動かない。
最期のときを迎えようとしているらしい。

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同じ日、鱗粉が落ちて色褪せたウラギンスジヒョウモンもやってきた。同じところを繰り返し低く飛んでいて、弱っているのがわかる。

お別れを言いに来てくれたのか、しばらく私の周りをまとわりつくように飛んでいたが、ちょうどカメラがバッテリー切れを起こしてしまい、これは写真を撮れなかった。

今朝見ると、葉っぱの上に昨日のアゲハの姿はなかった。


シュタイナーの『天使たち 妖精たち』の中に、蝶が死ぬときについての記述がある。

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蝶々が死ぬとき、蝶々の羽の粉は消えてなくなるように見えます。

蝶々の羽からこぼれ落ちるのは、最高に霊化された実質なのです。

蝶々の羽から飛び散る粉は、小さな彗星のように、地球の熱エーテルのなかに流れていきます

季節の経過のなかで、蝶々たちが死滅する時期になると、すべては内的にきらきらと輝きます。

この輝きのなかに、サラマンダーが入っていき、その輝きを受けとります。

そして、サラマンダーが蝶々の羽から運んだものが、宇宙空間に光を放ちます。

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小さな蝶も、これほどに宇宙的な存在なのだ。

自然界の生きものたちは、何とみごとに逝くのだろう。
   
posted by Sachiko at 21:31 | Comment(0) | 自然
2021年08月28日

ほおずきを摘む

毎年こぼれ種で生えているほおずき、今年は色づくのが早く、もうすっかり赤くなっている。

刈り取って家に入れると、気分が一気に秋めいてきた。

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今日は気温が30度に達したのに、やはりもう夏の光ではない。
季節感は必ずしも気温によるものではないようだ。

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ふだんはあまり使わない和テイストの小物も、秋には似合う気がする。

あたり一面に聞こえる、涼し気な虫の音の心地よさ。
西洋人はこの音がノイズに聞こえるというのはほんとうだろうか。

幸いにして秋のある地域の中でも、小さなモミジやイチョウなど、日本の秋はことさらに繊細で美しいと思える。
  
posted by Sachiko at 21:45 | Comment(0) | 季節・行事
2021年08月24日

輪廻

この夏の猛暑で、冷涼地向きの花は夏を越せずに枯れてしまうのではないかと思っていた。

暑さも落ち着いてきて気がつけば、枯れたように見えた株元から新しい葉が育っている。

〈デルフィニウム〉

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〈オリエンタルポピー〉

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ジギタリスのこぼれ種から生えた芽も大きくなってきて、幾つかは雪の下で越冬できるだろう。

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地軸が絶妙に傾いているおかげて、地球には季節がある。
けれど四季がすべてそろっている地域はそう多くはなく、温帯から亜寒帯の一部だけだ。(個人的には、雪が積もらない地方の冬は冬と認めがたい。)

四季の移り変わりの中で、いのちが廻っていく様子を見ることができるのは貴重なことだ。

おなじみのウラギンスジヒョウモンは今年も姿を見せてくれたが、今回はうまく写真が撮れなかった。

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毎年やってくる蝶も、去年と同じ個体ではない。
ウラギンスジヒョウモンの食草はスミレ科なので、ひょっとしたら家の裏にあるスミレの下で越冬しているのかもしれない。

いのちあるものは、変容しながら自然界の時空を廻る。
小さな新芽も昆虫も、その壮大な美しさの一部を担っている。
   
posted by Sachiko at 21:47 | Comment(0) | 自然
2021年08月20日

「まほうつかいのノナばあさん」

「まほうつかいのノナばあさん」(文/絵 トミー・デ・パオラ)

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イタリアに古くから伝わる話をトミー・デ・パオラが再話した作品。

町の人々は、困ったことがおきるとストレガ・ノナ(“魔法使いのおばあさん”という意味)のところへ出かけていきました。

やがて年をとってきたストレガ・ノナは、家のことや畑しごとを手伝ってくれる人がほしくなりました。
やってきたのはノッポのアンソニイという若者でした。

ストレガ・ノナはアンソニイにたくさんの仕事をたのみましたが、たったひとつだけ「スパゲッティをゆでるかまには、けっしてさわってはいけないよ」と言い聞かせました。

ある日アンソニイは、ストレガ・ノナがかまのそばでおまじないの歌を歌うとかまがスパゲッティでいっぱいになるのを見てびっくり仰天。
あくる日町へでかけて、魔法のかまのことをしゃべりまくりましたが、だれも信じてくれません。

ストレガ・ノナが出かけた日、アンソニイがかまに向かっておまじないの歌を歌うと、かまはスパゲッティでいっぱいになりました。
アンソニイは町じゅうの人にスパゲッティをふるまいましたが、かまのスパゲッティはあふれるばかり。

町がスパゲッティの洪水になったとき、ストレガ・ノナが帰ってきて歌を歌い、かまにおまじないをキスをすると、やっとスパゲッティはとまりました......


このお話は、グリム童話の「おいしいおかゆ」によく似ている。
母親とふたり暮らしの貧しい少女が、森で知らないおばあさんから鍋をもらう。

「おなべや、ぐつぐつ!」と言うと、鍋はおかゆを作り、「おなべや、おしまい!」と言うとやめる。

ある日少女の留守に母親が「「おなべや、ぐつぐつ!」と言っておかゆを作るが、おなかいっぱいになっても鍋を止める言葉がわからず、おかゆが道にあふれだしたところで少女が帰ってくる...というお話だ。

この他にも多くの昔話が、少しずつ形を変えて、ヨーロッパ全域に広まっていたのだろう。
例えばイギリスの昔話「トム・ティット・トット」は、名前が違うだけで中身はグリムの「ルンペルシュティルツヒェン」とほぼ同じだ。


魔法の呪文が出てくる話は多い。「ことば」や「名前」というものは、古い時代にさかのぼるほど、それ自体が呪術的な力を持つものだった。

語り伝えられてきた古い物語には、まだことばが魔法を帯びていた時代のかすかな残照が感じられる気がする。
  
posted by Sachiko at 22:10 | Comment(4) | 絵本
2021年08月17日

「図書館にいたユニコーン」・2

「図書館にいたユニコーン」(マイケル・モーバーゴ作)

・・・その夏、トマスの村にも戦争がやってきた。
ある日爆撃機が飛んできて爆弾を落とし、村中に火が燃え広がった。
トマスの家は焼けずにすんだが、父さんのゆくえがわからなくなっていた。

村の中心で、燃えている図書館に消防士たちが放水していた。
そのとき、父さんとユニコーン先生が本を抱えて図書館から出てくるのが見えた。

村人たちも集まり、力を合わせて本を運び出し、これ以上は危険という最後に、父さんと先生が木でできたユニコーンを運びだした。


先生は言った。
「このユニコーンはわたしの父が作ったものなの。父はよくいっていたわ。木でできたユニコーンだけれど、本物とおなじように、ふしぎなまほうの力をもっているんだよって。
・・・
建物はこわせても、わたしたちのゆめをこわすことは、だれにもできないわ」

家が焼けずにすんだ人たちは、救い出した本を少しずつ預かり、戦争が終わって新しい図書館ができたらまた持ち寄ることになった。


戦争が終わって新しい図書館が建てられても、すべてが元どおりになったわけではなかった。
戦地から帰ってこなかった者も、癒えない傷を負った者もいた。

20年後、ユニコーン先生は今も図書館で働いている。大人になったトマス少年は本を書く仕事をし、ときどき子どもたちにお話をするために図書館へ行く。


焚書などしないまでも、子どもたちを(大人たちも)物語や詩から遠ざけ、自由に考え、想像することから遠ざけようとする力は常に機会を狙っている。

その力は、外側の物質的な破壊から、人間の内面の破壊へと方法を変えてきているらしい。
それは遠い昔や遠い国の話ではなく、今進行中の危機である。

ほんものの物語や詩には、人間の内側を破壊から守ってくれる不思議な力がある。まさにユニコーンの魔法だ。
この物語は、実際に図書館の本を救った司書の話がもとになっているという。
  
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 児童文学