2021年11月30日

「ノーナさまのクリスマス」

「ノーナさまのクリスマス」(トミー・デ・パオラ)

「まほうつかいのノナばあさん」の続編で、「まほうつかいのノーナさま」シリーズの中の一冊。
手伝いの若者、のっぽのアンソニーもまた登場する。

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イタリアのカラブリアにある小さな町では、魔法使いのノーナさまが毎年クリスマスイブに町じゅうの人を招いてパーティをすることになっている。

手伝いのアンソニーも、次々と用事を言いつけられて大忙し。
魔法を使えばいいのに、と言うが、ノーナさまはクリスマスには魔法を使わないことになっているのだ。
クリスマスの頃には自然と、魔法がはたらくものだからね、とノーナさまは言う。

忙しく日は過ぎて、とうとうクリスマスイブの朝になり、アンソニーはまたたくさんの買い物を言いつけられた。
ノーナさまは家を飾りつけて待っていたが、アンソニーは戻ってこない。

日が沈むころ、何も持たないでアンソニーが帰ってきた。
町の広場で人形劇を見ていたアンソニーは、買い物をすっかり忘れていたという。

ノーナさまは、今夜のパーティは取りやめだと町の人たちに伝えるために、アンソニーを使いに出した。

真夜中のミサを知らせる鐘が鳴り、ノーナさまは寂しい気もちで丘を下りて教会へ行った。
中では、パーティがないことにがっかりしている人々のささやきが聞こえた。

教会の隅に飾られた生誕の人形たちを見ながら、ノーナさまはつぶやいた。
「イエスさま、あなたがお生まれになった夜は、ほんとはこんなににぎやかじゃなかった。おかあさまとおとうさまだけの、さびしいお誕生日だったのですね....」

ノーナさまは教会を出て、丘の家に帰っていった。
ドアを開けたとたん・・・・

「メリークリスマス、ノーナさま!」

そこには町じゅうの人たちが、パーティのごちそうを用意して待っていた。
アンソニーが計画したことだったのだ。
「クリスマスのころには、しぜんとまほうがはたらくものですからね」

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クリスマスの頃にはしぜんと魔法がはたらくものだから、魔法使いも魔法を使わない・・・・なんと素敵な考えだ。

賑やかなクリスマスも、静かなクリスマスも、クリスマスには魔法さえも超えた特別なちからがはたらく。
なんだかとても大きく、天と地とすべての人を包み込むようだ。

今年もアドベントに入り、この季節だけの聖夜の気分に静かに耳を澄ませば、もう魔法ははたらいている。
  
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(0) | 絵本
2021年11月26日

「永訣の朝」

今年も遅い初雪だったが、明日は本格的な雪になりそうだ。

宮澤賢治のこの詩については(他の作品についても同様に)、何かを語ろうとするのものもまったく余計なことに思えるのだけれど.....


  けふのうちに

  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ

  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ

  (あめゆぢゅとてちてけんじや)

    ・・・・

  おまへはわたくしにたのんだのだ

  銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかいの

  そらからおちた雪のさいごのひとわんを.....


この世を去ろうとするひとの最後のたべものは、地から生え出たものではなく、天から降りてきたものだった。

色を持たず、地上の温度には耐えられない、まさに“すきとおったほんとうのたべもの”に近いもの。

  銀河や太陽 氣圏などとよばれたせかい

『銀河鉄道の夜』のカムパネルラには、妹としの姿が投影されているという説もあるが、そうした解釈もまた、すきとおった魂の表出にとっては余計なことなのだろう。

愛する者が、銀河などとよばれる世界の向こうへ行ってしまう。
澄みわたった銀河の水が凍ったような美しい雪の姿。


  おまへがたべるこのふたわんのゆきに

  わたくしはいまこころからいのる

  どうかこれが兜卒の天の食に變つて

  やがてはおまへとみんなとに

  聖い資糧をもたらすことを

  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ


としが亡くなったのは、11月27日。
まだ本格的な冬ではない、みぞれの降る頃だったのだ。
  
posted by Sachiko at 22:37 | Comment(0) | 宮澤賢治
2021年11月22日

天上の果実

『指輪物語』の最初のほう、フロドとサムとピピンがホビット庄から旅立ったばかりの頃、エルフの一行と出会う。

森の中で、エルフたちに言わせれば簡素な、ホビットたちにとっては誕生日のごちそうにも勝るもてなしに、彼らは心奪われる。

 餓える者が白く美しい一山のパンに味わうおいしさよりも
 はるかに勝る風味を持ったパン
 手入れのよい果樹園出来のものよりも味のよい果物
 
サムは言う。
「おらにこんなりんごが育てられたら、おらも自分を庭師と呼びますだ。」


りんごの話といえば、『銀河鉄道の夜』では、列車の中でジョバンニたちが灯台看守からりっぱなりんごをもらう。

「・・・あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。りんごだってお菓子だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです。」

むいたりんごの皮は、コルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間に灰色に光って蒸発してしまう。


もうひとつ、“ほんとうのナルニア”にある木の実の話。

・・・とれたてのグレープフルーツでも、これにくらべれば味がなく、いちばん汁気のあるオレンジでもかすかす、舌の上でとけるくらいの洋ナシもまだかたくて、すじっぽいといえるし、どれほどあまい野イチゴにせよ、これにくらべたらすっぱいと思われました。


どの物語でも、天上の食物の描写はよく似ている。
天上の果実の輝く美しさ、香り、風味を想像することができるのは、
どこか深い深いところにある思い出の中で、それを知っているからだ。

地上の存在は、花も果実も人間も、天上のそれから見ると影のような写しなのだろう。

天の果実の香りを思い出すことは、地上を影のようにさまよっている現代の人間にとって、自分の出自を思い出すための微かな導きの糸にならないだろうか。
  
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(0) | ファンタジー
2021年11月18日

大団円

グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より

トーリーとピンは魔法玉を自分たちの部屋に持って行って吊るし、ペルシャ鏡も元の場所に戻すことにした。
トーリーは、鏡をのぞき込んだピンの顔が悲しげになったのに気がついて、何が映っているのか見に行った。

「そうだろ?そうだろ?ね?」ピンが言った。
「うん、そうだ。」トーリーが言った。

トーリーは不意に飛び上がって付け加えた。
「そうだろ?」
「うん、そうだ!」

ふたりは抱きあい、あわてて階段を降り、騎士の間を駆け抜けて、オールドノウ夫人に向かって叫んだ。

「ピンのおとうさんなんだ!ぼくのおとうさんの友だちっていうのは、ピンのおとうさんなんだ。庭の門を二人いっしょに来るところが鏡の中に見えたんだ。」


メラニー騒動のさなか、間もなくグリーン・ノウに着くというトーリーの父からの電報にはこう書かれていた。
『トモダチヲツレテ』

こんな奇跡が起こり得るのだろうか、と思うような結末。でもグリーン・ノウなら起こる。

ピンはこの後どうしたのだろう。お父さんに会えたので、オールドノウ夫人の養子でいる必要もなくなった。
ロンドンあたりでお父さんと暮らすのだろうか。それなら時々トーリーにも会える。

ともかく、こうしてトーリーとピンが体験したグリーン・ノウの危機は大団円で終わった。


この「グリーン・ノウの魔女」は、訳者によるあとがきが印象的だ。

「悪魔は、じぶんの姿でいる時よりも、人間の心の中であばれている時の方が、はるかに恐ろしい」というナサニエル・ホーソンの言葉が引用されている。
いつの時代にも、それはほんとうにそうだ。見た目は人間に見えるのだから。

そして、以前「戦わないヒーロー・3」でも書いたけれど、人間の力についてのこの箇所は勇気を与える。

「グリーンノウの女主人と子供たちは、正しい礼儀を守りながら、人間としての全力をふりしぼって、これと戦います。この小説が、なん百とある魔女物語と違う点は、この人間の力が美しく表現されているところにあります。」

『人間の力』、これこそは、困難な時代をくぐり抜けていくための、最も大切な鍵なのではないかと思う。
  
posted by Sachiko at 21:55 | Comment(0) | ルーシー・M・ボストン
2021年11月13日

魔女メラニーの最後

グリーン・ノウ物語第5巻「グリーン・ノウの魔女」より

トーリーとピンは、木の枝の中に隠れて計画を実行しようとしていた。
そこに、まるで中身がなくなってしまっているようなメラニーが近づいてきて、木の下にさしかかったところで、二人はボール紙で作ったラッパを口に当てた。

 去れ! ここより行け!
 メルシーン・デモゴルゴン・フォスファー!

少年たちはその名を繰り返した。

 ああ、フォスファー!
    フォスファー!
       ファー!

最後の「ファー!」とともに、メラニーの身体は引きつって倒れた。
そして、人間の心では信じられないいやらしいものがその上をまたいで立ち去って行った。

少年たちは心臓が止まりそうな思いだった。
敗北したメラニーは、中身がからっぽで、力もなくなって打ちひしがれていた。


メラニーに憑依していたものは、人間の心では信じられないようなもの---悪魔と呼ぶなら、そのようなものだったのだろう。

ファンタジーにはファンタジーの世界の法則がある。
そのゆえに、優れたファンタジー作品はどこか交錯して見えることがある。
『はてしない物語』(M・エンデ)の中の、サイーデの言葉を思い出す。

「からっぽのものなら何でもあやつることができる」

サイーデが操っていた騎士は、黒甲冑だけでできていて、中身は空っぽだった。
似たところでは、『指輪物語』の冥王サウロンの手下である黒の乗り手も、やはり空っぽだった。

この空っぽは恐ろしい。
現代は、悪の諸力が人間の内面を攻撃対象にしている時代だそうだ。
乗っ取られてしまったら、自分が乗っ取られているとは自覚できなくなるだろう。

内面を空虚にしないこと、得体の知れないものに委ねてしまわないことだ。
内なる勇気、知恵、善きものへの信頼とグリーン・ノウへの愛を、少年たちは持っていた。
本来そうである「人間らしい心」を、悪魔は嫌う。


オールドノウ夫人は、角を曲がってきたメラニーを信じられない思いで見た。おずおずとした様子は、これまで戦ってきた残忍な敵とは思えなかった。
メラニーは庭の道を通って、つまずきながら、小さく小さくなって出て行った。

こうしてこの奇妙な事件は終わった。あとはグリーン・ノウらしい、すばらしい出来事が待っている。
  
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(0) | ルーシー・M・ボストン