恐れのない「ほんとうのナルニア」も、罪やかなしみさえも聖く輝くイーハトヴも、内なる尊さの扉を通った先の世界にある。
宮澤賢治の『注文の多い料理店』広告文に書かれている一文、まさにこれだ。
「…それはどんなに馬鹿げていても難解でも、必ず心の深部に於て万人の共通である。」
心の深部において万人に共通の場、一枚の草の葉やそこに結ぶ露さえも、かぎりなく尊いものとして輝いている場所。
かつてミヒャエル・エンデが、現代ほど人類が外向的になった時代はない、と言っていた。
目に見え計測できる世界だけが全世界。けれどその世界で何を得ても、どこまで行っても、人はほんとうに望むものを得られずにいるらしい。
外界の花も葉っぱも石ころも、よく観察すれば宇宙叡智を映した驚くばかりの姿をしていて、そこにも扉は開いている。
「ぼくたちは自分の人格の限界をいつもあまりに狭く限りすぎる。
個人的に区別され異なっていると認めるものだけを、ぼくたちは常に自分の個人的存在の勘定に入れる。
ところが、ぼくたちは、ぼくたちのだれもが、世界に存在するすべてのものから成り立っている。」
(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』より)
誰もが、全世界のすべてのものから成り立っている。
そのすべてのものをどのように“知覚”しているか、それが各々の個性を表わす。
心の深部に、万人に共通の場がある。
扉を通ってそこへ旅することは、ほんとうの家に帰るような気分なのだ。
2022年02月28日
尊さの扉・2
posted by Sachiko at 21:50
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| 言の葉
2022年02月23日
大雪
このところの大雪が全国ニュースネタになっている。
それでも、雪まみれのこんな姿の木は美しい。

やはり近年は雪の時期が後ろにずれてきている。
2月下旬といえば例年は雪解けが始まっている頃なのに、今年はまだうず高く積もっている。
これは地面から覗いているブッシュではなく、ライラックの木のてっぺん。こんなに深く埋まったのは初めてだ。

近所のつらら。
最近の家はあまりつららができないので、昔のような大きなつららを見かけなくなった。

これほど雪深いにもかかわらず、陽が射すと、もう冬ではないと感じる。
光は春なのだ。

それでも、雪まみれのこんな姿の木は美しい。

やはり近年は雪の時期が後ろにずれてきている。
2月下旬といえば例年は雪解けが始まっている頃なのに、今年はまだうず高く積もっている。
これは地面から覗いているブッシュではなく、ライラックの木のてっぺん。こんなに深く埋まったのは初めてだ。

近所のつらら。
最近の家はあまりつららができないので、昔のような大きなつららを見かけなくなった。

これほど雪深いにもかかわらず、陽が射すと、もう冬ではないと感じる。
光は春なのだ。

posted by Sachiko at 22:23
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| 自然
2022年02月19日
尊さの扉
この本はもう、帯に書かれているこの一言だけで価値があるかもしれないと思った。
「どんな存在も尊い」
『シュタイナーの人生論』(高橋巌 著)の中で、今の(と言っても100年前だ)様相が続いて行ったら、地球が滅亡するまであまり時間がないとシュタイナーは考えていたらしい、とある。
------
どんな石っころも、どんな草花も、ものすごく尊いもので、それを見るだけで世界が輝くくらい、楽園に今自分たちが生きているのだということを自覚しないと、未来は見えてこない
------
道端の雑草も、落ちてくる葉っぱも、根源の宇宙叡智として今自分のほうにやってきている、と思えるかどうか、だという。
宇宙叡智の現れとしての一枚の葉っぱか、ただの落ち葉か....
価値というものは、それを意識しなければ見えてこない。
「どんな存在も尊い」
日本人はとかく「いいえ、私なんてとてもそんな...」と思いがちだけれど、時代遅れの謙譲の美徳もどきは捨てて、本質に還ろう。
(尊いのは本質であって、表面のエゴではない。むしろ本質の尊さを見失ったためにエゴが暴走する。)
自分の中の深奥にある尊さという扉を通ると、すべての存在が一堂に会する宇宙に至る。そこでは、すべての人も石ころも花も葉っぱも、輝くばかりの姿でそこに在る。
河合隼雄が昔似たようなことを言っていた。
コップを手に持って、「このコップも、実はこの背後にはとてつもなく大きなものがあってその一部なのではないか」と。
無限に大きな宇宙叡智の、ごく小さな一部分が見えるかたちをとって世界に顕現している。
その小さなかたちが、葉っぱであったり花であったり、私であったりあなたであったりする。
-------
時代が今のようになればなるほど、宇宙と人間の関係とか、イノチとカタチとの関係が改めて問われているのではないか
------
そうしたことは、知的な思考ではなくハートの思考で見たり考えたりしなくてはならないと、ここでは言われている。
知的な思考はハートの思考よりも上だという考えは長いあいだ支配的だったけれど、まさにその知的、論理的、分析的思考が、この世界を切り刻み破滅の淵に追いやってしまった。
世界を生まれ変わらせる尊さの扉は、ハートの奥にある。
「どんな存在も尊い」
『シュタイナーの人生論』(高橋巌 著)の中で、今の(と言っても100年前だ)様相が続いて行ったら、地球が滅亡するまであまり時間がないとシュタイナーは考えていたらしい、とある。
------
どんな石っころも、どんな草花も、ものすごく尊いもので、それを見るだけで世界が輝くくらい、楽園に今自分たちが生きているのだということを自覚しないと、未来は見えてこない
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道端の雑草も、落ちてくる葉っぱも、根源の宇宙叡智として今自分のほうにやってきている、と思えるかどうか、だという。
宇宙叡智の現れとしての一枚の葉っぱか、ただの落ち葉か....
価値というものは、それを意識しなければ見えてこない。
「どんな存在も尊い」
日本人はとかく「いいえ、私なんてとてもそんな...」と思いがちだけれど、時代遅れの謙譲の美徳もどきは捨てて、本質に還ろう。
(尊いのは本質であって、表面のエゴではない。むしろ本質の尊さを見失ったためにエゴが暴走する。)
自分の中の深奥にある尊さという扉を通ると、すべての存在が一堂に会する宇宙に至る。そこでは、すべての人も石ころも花も葉っぱも、輝くばかりの姿でそこに在る。
河合隼雄が昔似たようなことを言っていた。
コップを手に持って、「このコップも、実はこの背後にはとてつもなく大きなものがあってその一部なのではないか」と。
無限に大きな宇宙叡智の、ごく小さな一部分が見えるかたちをとって世界に顕現している。
その小さなかたちが、葉っぱであったり花であったり、私であったりあなたであったりする。
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時代が今のようになればなるほど、宇宙と人間の関係とか、イノチとカタチとの関係が改めて問われているのではないか
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そうしたことは、知的な思考ではなくハートの思考で見たり考えたりしなくてはならないと、ここでは言われている。
知的な思考はハートの思考よりも上だという考えは長いあいだ支配的だったけれど、まさにその知的、論理的、分析的思考が、この世界を切り刻み破滅の淵に追いやってしまった。
世界を生まれ変わらせる尊さの扉は、ハートの奥にある。
posted by Sachiko at 23:01
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| 言の葉
2022年02月14日
「赤い鳥の国へ」
「赤い鳥の国へ」(アストリッド・リンドグレーン)

まだ人々が貧しかった昔、みなし子になったマティアスとアンナ兄妹は、それまでいたミナミノハラを去り、ミーラ村のお百姓の家に働き手として引き取られた。
子どもたちは働きづめで、食べものは塩漬けニシンの汁につけたジャガイモだけ。冬まで生きていれば、学校に行かせてもらえる、それだけを励みにしていた。
森の道を凍えながら通った学校は、思ったほど楽しいところではなかった。
おべんとうの時間、冷たいジャガイモを持って来ただけのふたりをからかう子がいる。そして、乳しぼりの時間までには帰らなければならない。
ある日の帰り道、ふたりは赤い鳥を追って森の奥へ入り込む。
塀の向こうには、少しだけ開いている扉があった。
扉の中は春だった。天国のような草原で、子どもたちが遊んでいる。
子どもたちは、ここは別のミナミノハラだと言った。
楽しく遊んでいると、子どもたちみんなのお母さんが「ごはんよ!」と呼んだ。
その人はまさに二人のお母さんそのものだった。
おいしいごはんの後、ながいあいだ寄り道をしたことに気がついて帰ることにしたふたりを、みんなは半開きの扉のところまで送ってくれた。
それは一度閉まったら、二度と絶対に開かない扉だった。
ふたりはそれからも毎日、赤い鳥に導かれてミナミノハラへ行った。
冬が終わると、学校へは行けなくなり、また一日中働かなくてはならない。学校の最後の日は、ミナミノハラへ行けるのも最後だ。
その日は、冬のいちばん寒い日だった。
ふたりはミナミノハラにたどり着く前に死んでしまうかと思ったが、ついに半分開いた扉までやってきた。
そこはいつもの春のミナミノハラで、お母さんが「ごはんよ!」と呼んでいた。
扉の向こうには、冷たく凍りつく森があった。
ふたりは互いをみつめあい、一度閉めたら二度と開かないという扉を、そっと閉めた....
--------
いつの時代なのか、北欧がまだ貧しかった頃の物語。
過酷な環境で働く子どもといえば、大昔に観たスウェーデンの映画「ペレ」を思い出す。(これは私の「二度と観たくない三つの悲惨な映画」のひとつだ。(>_<))
マティアスとアンナ兄妹は、赤い鳥に導かれてもうひとつのミナミノハラへ行くことができなければ、あまりに希望のない灰色の暮らしだった。
いつも半開きになっている扉は、一度閉めたら二度と開かない。
これはきっと、マティアスとアンナにとっては二度と開かないということなのだと思う。彼らにとっては、もう開ける必要もない。
でもこの救いの地を必要とする別の子どもには、まだその扉は開いている気がする。
その時はかの地もミナミノハラではなく別の名前を持っているだろう。
その子にとって幸せな思い出のある場所の名で、そこで会うお母さんも、まさにその子のお母さんだろう。
この物語はファンタジーだけれど、どこかアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い起こす。
マッチの火が燃えているあいだだけ見える、すばらしい光景。
そして三度目の光景が消える前に、少女はこの世に戻る扉を閉めたのだ。
あれもまた、今は豊かで幸福な国が貧しかった時代の話で、あのような少女はリアルに存在したのだろうな、と思う。
過酷な環境の子どもたちは、北欧からはいなくなったとしても、地球上からいなくなってはいない。

まだ人々が貧しかった昔、みなし子になったマティアスとアンナ兄妹は、それまでいたミナミノハラを去り、ミーラ村のお百姓の家に働き手として引き取られた。
子どもたちは働きづめで、食べものは塩漬けニシンの汁につけたジャガイモだけ。冬まで生きていれば、学校に行かせてもらえる、それだけを励みにしていた。
森の道を凍えながら通った学校は、思ったほど楽しいところではなかった。
おべんとうの時間、冷たいジャガイモを持って来ただけのふたりをからかう子がいる。そして、乳しぼりの時間までには帰らなければならない。
ある日の帰り道、ふたりは赤い鳥を追って森の奥へ入り込む。
塀の向こうには、少しだけ開いている扉があった。
扉の中は春だった。天国のような草原で、子どもたちが遊んでいる。
子どもたちは、ここは別のミナミノハラだと言った。
楽しく遊んでいると、子どもたちみんなのお母さんが「ごはんよ!」と呼んだ。
その人はまさに二人のお母さんそのものだった。
おいしいごはんの後、ながいあいだ寄り道をしたことに気がついて帰ることにしたふたりを、みんなは半開きの扉のところまで送ってくれた。
それは一度閉まったら、二度と絶対に開かない扉だった。
ふたりはそれからも毎日、赤い鳥に導かれてミナミノハラへ行った。
冬が終わると、学校へは行けなくなり、また一日中働かなくてはならない。学校の最後の日は、ミナミノハラへ行けるのも最後だ。
その日は、冬のいちばん寒い日だった。
ふたりはミナミノハラにたどり着く前に死んでしまうかと思ったが、ついに半分開いた扉までやってきた。
そこはいつもの春のミナミノハラで、お母さんが「ごはんよ!」と呼んでいた。
扉の向こうには、冷たく凍りつく森があった。
ふたりは互いをみつめあい、一度閉めたら二度と開かないという扉を、そっと閉めた....
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いつの時代なのか、北欧がまだ貧しかった頃の物語。
過酷な環境で働く子どもといえば、大昔に観たスウェーデンの映画「ペレ」を思い出す。(これは私の「二度と観たくない三つの悲惨な映画」のひとつだ。(>_<))
マティアスとアンナ兄妹は、赤い鳥に導かれてもうひとつのミナミノハラへ行くことができなければ、あまりに希望のない灰色の暮らしだった。
いつも半開きになっている扉は、一度閉めたら二度と開かない。
これはきっと、マティアスとアンナにとっては二度と開かないということなのだと思う。彼らにとっては、もう開ける必要もない。
でもこの救いの地を必要とする別の子どもには、まだその扉は開いている気がする。
その時はかの地もミナミノハラではなく別の名前を持っているだろう。
その子にとって幸せな思い出のある場所の名で、そこで会うお母さんも、まさにその子のお母さんだろう。
この物語はファンタジーだけれど、どこかアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い起こす。
マッチの火が燃えているあいだだけ見える、すばらしい光景。
そして三度目の光景が消える前に、少女はこの世に戻る扉を閉めたのだ。
あれもまた、今は豊かで幸福な国が貧しかった時代の話で、あのような少女はリアルに存在したのだろうな、と思う。
過酷な環境の子どもたちは、北欧からはいなくなったとしても、地球上からいなくなってはいない。
posted by Sachiko at 22:10
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| 児童文学
2022年02月08日
山の方角
前に、私の頭の中でムーミン谷の地図の南北が逆さになっていたことを書いた。
そして最近、久しぶりにミドルアース(中つ国)の地図を見たら....
私の中ではずっと、フロドたちはホビット庄を出発した後、西へ向かって旅しているイメージがあった。
つまり、古森→粥村→裂け谷と西に向かい、そこから南に向かって霧降り山脈が続くと思っていたのだが.....
地図を見ると、この認識では東西が逆になってしまっている。
エリアドールの地図をちょうど鏡に映したような感じだ。
なぜこうなった?
ふと、思いもよらなかったことに気がついた。
山というものは西側から南側にかけて連なっているものだ、という、強く刻印されたようなイメージだ。
北や東に山があるというのはどうしても違和感があってイメージしにくい。
それで、ムーミン屋敷から見て北東におさびし山があることにも強烈な違和感があったのだ。
この観念はどこから来ているのか....
何のことはない、札幌の地形だ。
西から南にかけて山があり、北や東は平地なのだ。
時々、街で道に迷っている夢を見る(夢の中でさえ方向音痴...(>_<)。
その時山のあるほうを見て、向こうが西だ!と歩き出す。
人は無意識のうちに環境の影響を受ける。
けれど口にする食べ物の影響は気にしても、目にするものの影響はふだんあまり意識しない。
でも実際は、住環境やあたりの景色がどんな様子をしているかは、魂に刻印づけられる。
だから、美しい場所を創ることが必要なのだ。
こうして長い時間をかけて刻印された内なる地図が、ムーミン谷やミドルアースの地図をひっくり返すような影響を与えているとは思わなかった。
そして最近、久しぶりにミドルアース(中つ国)の地図を見たら....
私の中ではずっと、フロドたちはホビット庄を出発した後、西へ向かって旅しているイメージがあった。
つまり、古森→粥村→裂け谷と西に向かい、そこから南に向かって霧降り山脈が続くと思っていたのだが.....
地図を見ると、この認識では東西が逆になってしまっている。
エリアドールの地図をちょうど鏡に映したような感じだ。
なぜこうなった?
ふと、思いもよらなかったことに気がついた。
山というものは西側から南側にかけて連なっているものだ、という、強く刻印されたようなイメージだ。
北や東に山があるというのはどうしても違和感があってイメージしにくい。
それで、ムーミン屋敷から見て北東におさびし山があることにも強烈な違和感があったのだ。
この観念はどこから来ているのか....
何のことはない、札幌の地形だ。
西から南にかけて山があり、北や東は平地なのだ。
時々、街で道に迷っている夢を見る(夢の中でさえ方向音痴...(>_<)。
その時山のあるほうを見て、向こうが西だ!と歩き出す。
人は無意識のうちに環境の影響を受ける。
けれど口にする食べ物の影響は気にしても、目にするものの影響はふだんあまり意識しない。
でも実際は、住環境やあたりの景色がどんな様子をしているかは、魂に刻印づけられる。
だから、美しい場所を創ることが必要なのだ。
こうして長い時間をかけて刻印された内なる地図が、ムーミン谷やミドルアースの地図をひっくり返すような影響を与えているとは思わなかった。
posted by Sachiko at 22:03
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