2022年03月29日

夜明けの星々

夜明け前の南東の低空に、金星と土星と火星が集まっていた。
今朝はその下にデクレセントムーンも。

moonstars.gif

この惑星たちのグループの中には冥王星もいるのだが、もちろん肉眼では見えない。

市街地では見えないけれど、東の地平線すれすれのところには木星と海王星もいる。さらに太陽に近いところには水星。
天王星はそれより少し離れている。

太陽系ファミリーは今、地球から見るとほとんどが太陽の近くに集まっていて、夜空には肉眼で見える惑星はいない。
星読みに詳しい人なら何か読み取れるのかもしれない。


星々は互いに影響を与えあい、地球は単独で存在してはいない。
地球上の人間、動物、植物、鉱物は、星の影響を受けている。
古い時代の人間はそのことを知っていた。

現代人間社会の惨状から抜け出るには、星々や他のすべての存在たちのダンスの輪に戻ることだ。
  
posted by Sachiko at 22:16 | Comment(2) | 宇宙
2022年03月27日

四つの気質

ここで勝手にリンクを貼っている「森へ行こう」というブログ、コピー転載自由ということなので、3月27日付の記事の一部を転載させていただいた。

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一般的に多血質の人は「色」に敏感です。ですから、多血質の人は色彩豊かな世界に生きています。また「変化」が好きなので、変化するものに引き寄せられます。

憂鬱質の人は「音」に敏感です。ですから、憂鬱質の人は豊かな音の世界に生きています。特に人の声や自然の音には敏感です。色よりも明暗に対する感受性が高いです。
またそのため、「騒がしい音」や「明るすぎる場所」は苦手です。
多血質の人と同じように変化にも敏感ですが、多血質の人が変化を好むのに対して、憂鬱質の人は変化を怖がります。
そして日本人はそのような感性が強い民族です。

粘液質の人は肌に触れてくるものに敏感です。肌に触れる風、肌に触れる光、手をつないだときの手のぬくもり、子どもを抱いているときの柔らかい感触、お風呂のお湯の感覚のようなものが好きで、その感覚に浸っていると幸せを感じます。

胆汁質の人は社会的な活動や意味のある行動に強い関心があります。
そのため「善悪」には興味がありますが、「美醜」には興味がありません。人工的なものには興味がありますが、自然にはあまり興味がありません。目立つものが好きです。自分が目立つのも好きです。
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人間の基本的な四つの気質について普段から意識する人は多くないかもしれない。シュタイナー教育では子供のときから気質について学ぶ。

ひとりの人間の中で四つの気質は入り混じっていて、どれか一つに特化しているわけではなく、どの気質の傾向が強いか、ということなのだ。
あるタイプの人とどうも合わなかったりすることも、気質を理解することによって緩和できたりする。

(ちなみに私はバリバリの胆汁質(特に男性)が苦手だ...などと書いてしまってはマズイかな、と思ったけれど、たぶんバリバリ胆汁質の人は私のブログには来ないだろう。)

同じ気質でも、年齢性別、背景の文化や気候風土などで、色合いのグラデーションのように現れかたが違ってくる。
日本人の憂鬱質と北欧人の憂鬱質はかなり質が違うと思う。

日本人はほんとうに憂鬱質が強いのか、もしそうなら日本の都市はなぜこんなに騒音やギラギラした照明が多いのか?という疑問もある。
元々は「もののあはれ」を感じ取る精妙な感性を持っていたはずが、現代特有の別の要因が入り込んでしまったのだろう。


今日は最初のスノードロップが咲いていた。
その写真を撮りそこなったこともあり、急遽話題を変更した次第。
  
posted by Sachiko at 22:21 | Comment(0) | 未分類
2022年03月23日

「町かどのジム」

「町かどのジム」(エリノア・ファージョン)

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1934年に書かれた、古い時代のモノクロ映画を思わせるようなお話。

町角のポストの横に置かれたミカン箱に、年老いたジムはいつもすわっていた。
8歳のデリー少年は、ジムはそこでずっと通りの番をしているのだと思っていた。だからいつも安心だ。

ジムが身に着けているものは、みんな近所の誰かからもらったものだった。通りに住む人はみんなでジムの世話をしていた。

ジムは今年の8月10日で80歳になる。
デリーが「誕生日には何がほしい?」ときくと、ジムは「海を見ることだよ」と答えた。


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この通りにすむだれがとおっても、ジムは、うれしそうに顔をほころばせて、「ちょうだいした長ぐつですよ、だんな。」とか、「ちょうだいしたくつしたでさあ。」とか、「ちょうだいしたえりまきですよ、おじょうさん。」とか、いうのでした。

そんなわけで、ジムは、この通りにはなくてはならぬ人でした。ここにすむみんながそう思っていました。
だれでも、このかどをまがるときは、まるで、じぶんの一部が、ジムといっしょに、ミカンばこの上にすわっているような気がするのでした。

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本の中でジムについて書かれているのは最初と最後の章だけで、あとは、ジムがデリーに話して聞かせるたくさんの面白いお話でできている。
それはジムが子供の頃や、船乗りだった頃のお話だった。

畑に落としたベーコンサンドイッチから、ベーコンサンドイッチの木が生えてきたり、人の欲しがるものは何でもある「ありあまり島」の王さまになった話、南極のペンギンと仲よくなったり、インド洋では虹色の大ウミヘビに遭遇したりと、突拍子もない話ばかりなのだが。


ジムの誕生日、ジムは町角にひとりぼっちで座っていた。
仲よしの子どもたちはみんな、海や山や田舎に行ってしまっていた。
過ぎ去った日のことを考えているうちに居眠りを始めたジムは、いろいろな夢を見た。

夢の中にデリーが現われて叫んだ。
「おたんじょう日おめでとう、ジム!」
目を覚ますと、目の前に海岸へ行っていたはずのデリーがいた。
パパの車で、誕生日のお祝いを言いに来たのだ。

そして、いっしょに車で海岸へ行って二週間滞在する手配をしてあるという。
ジムが誕生日には何よりも海のにおいをかぎたいと言っていたからだ。
車はジムを乗せて走りだした....



老人が物語を語り、子供が目を輝かせて聞き入る。
今はもうほとんど見ることのなくなった光景だ。

ジムは、食べるものや寝るところはどうしているのだろう。
それもきっと近隣の人々がめんどうをみて、誰かがどこかに小さな部屋でも提供しているのだろうか。

舞台は田舎町ではなく大都会ロンドンなのだが、物語に流れる空気は、体温や息づかいのように温かい。
これもファージョンの本ではおなじみの、エドワード・アーディゾーニが挿絵を描いている。
  
posted by Sachiko at 22:26 | Comment(0) | 児童文学
2022年03月18日

「ざしき童子のはなし」

先日の東北の地震で、空家が倒壊したニュースを見て、宮澤賢治の「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を思い出した。

人が住まなくなった家は脆くなる。
家にはたしかに、家の気、家の魂というようなものがあるのだ。
ざしき童子もそのように、古い家に棲む「気」の存在のひとつなのだろうか。

「ざしき童子のはなし」は、土地に伝わる幾つかの話が集められている。

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ちやうど十人の子供らが、両手をつないで円くなり、ぐるぐるぐるぐる、座敷のなかをまはつてゐました。

ぐるぐるぐるぐる、まはつてあそんで居りました。
そしたらいつか、十一人になりました。

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萩尾望都さんの「11人いる!」は、この話からインスパイアされたものだと聞いたことがある。

コミックつながりでもうひとつ、吉田秋生さんの「ざしきわらし」という短編がある。

ひろし少年は毎年お盆に母方の田舎に帰省するのがならわしで、土地の子どもたちとも仲よくなっていた。
ある年、浴衣に下駄という姿の、見たことのない子に会った。

その子も含め数人の友だちを連れて家に戻ると、お母さんがスイカを切ってくれたが....
子どもたちは、一個足りないという。お母さんはちゃんと人数分切ったという。

ひろし少年は、おとなにはこの子が見えないのだと気づき、おばあちゃんに話すと、それはざしきわらしだと言われる。

時が経って大人になったひろしは、妻と息子を連れて久しぶりに田舎に帰る。雑木林も川も、昔のままだった。

息子は友だちになった数人の子どもたちを連れて家に戻ってきた。
妻がスイカを出すと、「おかあさん、いっこたりないよ」と言われる。

ひろしはハッと気づいて、もう一切れスイカを持っていき、見えない子どもに声をかける。

「よく来たね」


このへんで元の話に戻ろう。

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ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやつぱり、どう数へても十一人だけ居りました。その増えた一人がざしきぼつこなのだぞと、大人が出てきて云ひました。

けれどもだれが増えたのか、とにかくみんな、自分だけは、何だつてざしきぼつこだないと、一生けん命眼を張つて、きちんと座つて降りました。
こんなのがざしきぼつこです。

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十人の子供がいつの間にか十一人になっているこの話が、中でも不思議で、昔の仄暗い田舎家の空気感を思い起こさせて何とも魅力的なのだった。
   
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | 宮澤賢治
2022年03月14日

メルヒェンと沈黙

マックス・ピカートの「沈黙の世界」の中で、メルヒェンについて少し触れられている。

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童話の中では、言葉を与えられるのは星であるか、花や樹木であるか、或いは人間であるかが、まだ不確かなのだ。
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あたかも、沈黙が深いところで、星か花か或いは人間か、いずれに永久に言葉をあたえるべきかを熟考しているようなのである。
さて、人間が言葉をあたえられた。しかし、まだ暫くのあいだは樹々や星や獣類も、語り続けていたのである。

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そうしてしばらくのあいだ、人間は星や樹木や獣たちのことばを聴くことができたようだ。
それとも、人間が彼らの言葉を聴くことができていたあいだ、彼らはまだ語り続けていたのだろうか。

現代の人間の言葉は、世界の他の存在たちと言葉を分かち合っていた頃とは違っている。今日の言葉がまだ“言葉”と呼べるものかどうかもわからない。

星や樹木や花や、人間自身の別様の姿を美しく映し出していたはずの存在たちは沈黙している。
人間は世界の中で、極端に孤独になってしまったのだ。

この孤独は人間を狂気に駆り立てる。
人間が他の美しい存在たちに耳を傾け語りかけることは、ふたたび自分自身を取り戻すことだ。


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童話の中のあらゆるものは、沈黙のうちに経過することもできるであろう。そして、本来ならば沈黙のうちに生起しうるものが、しかも言葉を伴っているということ、このこと自体が既に一つの童話だといわねばなるまい。
ちょうど子供たちが沈黙の世界に属しているように、童話は沈黙の世界に属しているのである。
子供たちと童話とが切っても切れない関係にあるのはそのためである。

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メルヒェンの中の木々や獣たちは、沈黙に属しているがゆえに語ることが出来た。子どもたち、そしてまだ沈黙に属していた時代には大人たちも、それらの言葉を聴いた。

やがてメルヒェンは「子どもじみたもの」として大人世界から閉め出され、子ども部屋に追いやられてしまったが、今ではさらに子ども部屋からさえ追い出されようとしているらしい。

現代人はこの上さらに何を失おうとしているのだろう.....
幸い、そうしようと思えばメルヒェンはまだ手の届くところにあり、始源に続く小径の旅はたしかに、喧噪の日常では味わえない活力に満ちている。

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〈ルンペルシュティルツヒェン〉 https://fairyhillart.net/grimm1.html

rumpelstilzchen.jpg
  
posted by Sachiko at 22:40 | Comment(2) | メルヒェン