SFのひとつのジャンルとして超能力テーマがあるが、異端の超能力者はたいてい迫害される。
例えばヴァン・ヴォクトの古典的名作『スラン』。
ミュータントの種族「スラン」が、人類によって激しい迫害を受けるが、テレパシーなどの超能力によって、隠れている仲間を探し出す。
主人公がスランの少女と通りですれ違い、テレパシーで互いを認識するシーンをなぜかはっきり憶えている。
「この青年はスランだわ」
「この娘はスランなのだ」
この本は昔持っていたけれど、もうSFは読まないだろうと思って手放してしまった。
先日ふと思い出して調べてみたら今は絶版になっていて、古本にとんでもない価格がついている。本はうっかり手放すものじゃない(>_<)。
迫害されるのは超能力者とは限らない。
以前紹介したブラッドベリの『華氏451度』に登場する少女クラリスは、別に超能力者ではない。
ただ雨の感触を楽しみ、月や草の露の美しさを見る。
それが、不都合なのだ。そして事故を装って消されてしまう。
クラリスによく似た少女の話がある。
萩尾望都さんの初期の短編『ポーチで少女が子犬と』。
幼い少女は超能力者でも何でもなく、ただ雨の日にポーチで子犬と遊んでいる。虹を美しいと思い、葉っぱの裏の妖精のことを考える。
それがどうやら不都合なのだ。
「あんなふうにひとりだけ別個の考えを持っていちゃ困るんですよ。雨の日は家の中にいるべきです。」
そして、家族と家政婦と医者は、少女に指先を向ける。
何かの光線でも発射されたのか、少女は一瞬で消滅する。
何がそんなに不都合なのだろう。
異端狩りはいつの時代にもあった。
先住民迫害、魔女狩り、違う宗派、違うイデオロギー....
動機はいつも“恐怖”だ。
自分たちとは違う少数派。少数なのに、なぜそんなに怖い?
自分が迫害されないために多数派に入ろうとした者も少なくなかっただろう。そうすると、敢えてそうしない者が余計に怖く感じるかもしれない。
これも以前書いたミヒャエル・エンデの言葉をもう一度。
「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。こうしたことからもファンタジーは、人間が持っている創造的な力ということができると思います。」
つまりは自由な想像&創造の力「人間であること」の力そのものが、独裁者にとっては不都合なのだ。
どんな異端狩りも狂気じみているけれど、そもそも歴史の中で、人類が集団的狂気に陥っていない時代があっただろうか。
今この時代にも、あの手この手で・・・・
2022年05月31日
異端狩り
posted by Sachiko at 22:34
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| SF
2022年05月27日
先を行く人
このブログを始めたばかりの頃、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』を扱った。
思えばこれは一回でサラっと流してしまうのはもったいない名作だった。
少しおさらいすると、エミリーとシャーロット姉妹と人形たちの物語で、主人公のトチーは古い小さな木の人形だ。
人形たちはプランタガネット家という家族を作って楽しく暮らしている。
そこに、見た目は美しいマーチペーンという人形がやってきて、プランタガネット家に危機が訪れる。
姉のエミリーがすっかりマーチペーンに夢中になり、楽しかった人形たちの世界が台無しになってしまった。
妹のシャーロットは、そんなエミリーのやり方を改めようとしていた。
小さな人形のトチーは言う。
「エミリーは、考えつくほうよ。シャーロットがぼやぼやしている間に、エミリーがいろんなことを考えついて、どしどし実行してしまうのよ。
あの子のように先に立って進む者は、時にはきっと間違うことがあるわ。
後からくる者から見たら、『これは間違いだった、あれは間違いだった。』というのはかんたんでしょう。
あとからくる者には正しい道がわかるのよ。選ぶ必要がないから。
エミリーはよく間違ったものを選ぶわ。」
そして人形たちは、エミリーが間違いに気づくことを願い続ける。
人形たちは、子供たちに遊んでもらわなければ口をきくことも動くこともできない。
人形たちにできるのは、ただ願うことだけ。
そうして人形の家に大きな悲劇が起きたあとで、エミリーは元のエミリーに戻る。
そして、めったに何かを思いつくということのないシャーロットが、マーチペーンを博物館にあげてしまうことを思いついた....
先に立って進む者は間違える。後から行く者は、その間違いがわかる。人形トチーの言葉は深い。
時には先頭を行く間違えた者のあとを、大勢がそのままついて行ってしまうこともある。
エミリーは自分の間違いに気づいた。
自分が間違っていたことに気づいて改める、これは人間にとって難しいことのひとつだ。
特に、集団心理のようなものが暴走する時には。
大人の作品も多く書いているルーマー・ゴッデンは、子供の本を書くときに、特に子供向けに言葉を変えるようなことはしないと言った。
この点は、多くの優れた子どもの本の書き手たちはみんな同じように言っている。
いかにも「子ども向け」という本は私は好きではない。
幼い子どもへの配慮は必要だが、子どもは自分が表現できるレベルの言葉しか理解できないと思い込むのは、子ども時代をすっかり忘れてしまった大人の傲慢というものだ。
思えばこれは一回でサラっと流してしまうのはもったいない名作だった。
少しおさらいすると、エミリーとシャーロット姉妹と人形たちの物語で、主人公のトチーは古い小さな木の人形だ。
人形たちはプランタガネット家という家族を作って楽しく暮らしている。
そこに、見た目は美しいマーチペーンという人形がやってきて、プランタガネット家に危機が訪れる。
姉のエミリーがすっかりマーチペーンに夢中になり、楽しかった人形たちの世界が台無しになってしまった。
妹のシャーロットは、そんなエミリーのやり方を改めようとしていた。
小さな人形のトチーは言う。
「エミリーは、考えつくほうよ。シャーロットがぼやぼやしている間に、エミリーがいろんなことを考えついて、どしどし実行してしまうのよ。
あの子のように先に立って進む者は、時にはきっと間違うことがあるわ。
後からくる者から見たら、『これは間違いだった、あれは間違いだった。』というのはかんたんでしょう。
あとからくる者には正しい道がわかるのよ。選ぶ必要がないから。
エミリーはよく間違ったものを選ぶわ。」
そして人形たちは、エミリーが間違いに気づくことを願い続ける。
人形たちは、子供たちに遊んでもらわなければ口をきくことも動くこともできない。
人形たちにできるのは、ただ願うことだけ。
そうして人形の家に大きな悲劇が起きたあとで、エミリーは元のエミリーに戻る。
そして、めったに何かを思いつくということのないシャーロットが、マーチペーンを博物館にあげてしまうことを思いついた....
先に立って進む者は間違える。後から行く者は、その間違いがわかる。人形トチーの言葉は深い。
時には先頭を行く間違えた者のあとを、大勢がそのままついて行ってしまうこともある。
エミリーは自分の間違いに気づいた。
自分が間違っていたことに気づいて改める、これは人間にとって難しいことのひとつだ。
特に、集団心理のようなものが暴走する時には。
大人の作品も多く書いているルーマー・ゴッデンは、子供の本を書くときに、特に子供向けに言葉を変えるようなことはしないと言った。
この点は、多くの優れた子どもの本の書き手たちはみんな同じように言っている。
いかにも「子ども向け」という本は私は好きではない。
幼い子どもへの配慮は必要だが、子どもは自分が表現できるレベルの言葉しか理解できないと思い込むのは、子ども時代をすっかり忘れてしまった大人の傲慢というものだ。
posted by Sachiko at 22:23
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2022年05月22日
にもかかわらずの希望・2
ミヒャエル・エンデはよく、「万事休した時に転換が起きる」と言っていた。
万事休した時に起こった転換といえば、『指輪物語』(瀬田貞二訳)のこの場面を思い出す。
フロドとサムが探索の旅を終えたとき、サムが言う。
「旅はおわりました。けど、はるばるここまで来たあとで、まだ諦めたくねえのです。諦めるなんちゅうのは、どういうわけか、おららしくねえのです。」
そしてサムはフロドと共に、せめて火山からもう少し離れようとする。
流れる火が迫ってくる中、もう逃れようもなくなった二人が倒れた瞬間、ガンダルフが遣わしたオオワシたちが二人を掴んで飛び去る。
力みの入らない、サムの純粋な希望。
それはメリーが“踏んでも叩いても壊れない”と言ったピピンの天性の快活さとも違っている。
ガンダルフはフロドについて、やがて澄んだ光を湛えた盃のようなものになると言ったが、サムもまた、何かそれに似たものに上昇していくように見える。
探索の旅はサムがいなければ成就せず、この物語の最後は、すべてを見届けたサムの帰宅で終わる。
さらに、ビルボから受け継いだ冒険の物語をフロドがほとんど書き終えたとき、「最後の何ページかはお前が書くんだよ。」と、本の最後もサムに託されている。
万事休した時の転換は、起こそうとしても起きないだろう。
諦めきってしまっても起きない。
まさに、弓を引きしぼって、矢がひとりでに放たれるのを待つ境地。
そこに超自然的な何かのはたらきが入り込む場ができる。
あの朴訥なサムの中には、そのような力を通す何かがあった気がするのだ。
万事休した時に起こった転換といえば、『指輪物語』(瀬田貞二訳)のこの場面を思い出す。
フロドとサムが探索の旅を終えたとき、サムが言う。
「旅はおわりました。けど、はるばるここまで来たあとで、まだ諦めたくねえのです。諦めるなんちゅうのは、どういうわけか、おららしくねえのです。」
そしてサムはフロドと共に、せめて火山からもう少し離れようとする。
流れる火が迫ってくる中、もう逃れようもなくなった二人が倒れた瞬間、ガンダルフが遣わしたオオワシたちが二人を掴んで飛び去る。
力みの入らない、サムの純粋な希望。
それはメリーが“踏んでも叩いても壊れない”と言ったピピンの天性の快活さとも違っている。
ガンダルフはフロドについて、やがて澄んだ光を湛えた盃のようなものになると言ったが、サムもまた、何かそれに似たものに上昇していくように見える。
探索の旅はサムがいなければ成就せず、この物語の最後は、すべてを見届けたサムの帰宅で終わる。
さらに、ビルボから受け継いだ冒険の物語をフロドがほとんど書き終えたとき、「最後の何ページかはお前が書くんだよ。」と、本の最後もサムに託されている。
万事休した時の転換は、起こそうとしても起きないだろう。
諦めきってしまっても起きない。
まさに、弓を引きしぼって、矢がひとりでに放たれるのを待つ境地。
そこに超自然的な何かのはたらきが入り込む場ができる。
あの朴訥なサムの中には、そのような力を通す何かがあった気がするのだ。
posted by Sachiko at 22:07
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2022年05月17日
にもかかわらずの希望
1995年に世を去ったミヒャエル・エンデには、もう20年くらい生きていてほしかったと思うが、現在の世界の様相を見たらエンデはどう思うだろう。
「オリーブの森で語りあう」というかなり古い本(ミヒャエル・エンデ、エルンスト・エプラー、ハンネ・テヒルによる会話)がある。
1982年に、世界の今日的課題を中心に語られたものだが、40年経った今でも問題はほとんど変わっていないか、ますますひどくなっているように見える。
その中でエンデは聖フランチェスコ伝説から、よく知られたニンジンのエピソードを持ち出す。
旅人:フランチェスコさま、来週世界が滅びてそのニンジンを食べられなくなるとしたら、どうなさいますか。
フランチェスコ:このまま種をまき続けるさ。
---------
そもそも希望は、いつも「…にもかかわらず」心にいだかれるものだ。
「…だから」希望がいだかれるわけじゃない。
だから希望というものは「超自然的な徳」なんだ。
ぼくは「われわれの現状が人類の歴史の終着駅となる」なんて信じない。
人間は人間だけですべてをつくる必要はない。世界にはほかにいろんな力がはたらいている。それらが助けの手をさしのべてくれたり、必用な条件をととのえてくれたりするんだ、とね。
こういう確信をぼくは、『モモ』のマイスター・ホラという人物にたくした。
---------
この「…にもかかわらずの希望」の話は、1991年刊の「エンデの文明砂漠」でも同じように語られている。
・・・「希望」は「ものごとがそうだから」もつものではなく、「物事がそうであるにもかかわらず」もつものなのです。
人類がこの地球上でなすべきことをすでに終了したとは思いません・・・
マイスター・ホラは時間を止める前に、モモに1時間分の時間の花を与える。時間が過ぎるとともに、花びらは散っていく。
奪われた時間貯蔵庫の扉を、モモは花びらで触れて閉め、時間の供給を絶たれた時間泥棒たちが消え去ったあと、残った最後の1枚の花びらで扉を開ける。
小さなモモと最後の1枚の花びらによって為されたことが、どれほど大きなことだったのか、人々は知らない。
人間時間の中ではまばたきするほどのあいだに、超自然的なはたらきが入り込まないともかぎらない。
「オリーブの森で語りあう」というかなり古い本(ミヒャエル・エンデ、エルンスト・エプラー、ハンネ・テヒルによる会話)がある。
1982年に、世界の今日的課題を中心に語られたものだが、40年経った今でも問題はほとんど変わっていないか、ますますひどくなっているように見える。
その中でエンデは聖フランチェスコ伝説から、よく知られたニンジンのエピソードを持ち出す。
旅人:フランチェスコさま、来週世界が滅びてそのニンジンを食べられなくなるとしたら、どうなさいますか。
フランチェスコ:このまま種をまき続けるさ。
---------
そもそも希望は、いつも「…にもかかわらず」心にいだかれるものだ。
「…だから」希望がいだかれるわけじゃない。
だから希望というものは「超自然的な徳」なんだ。
ぼくは「われわれの現状が人類の歴史の終着駅となる」なんて信じない。
人間は人間だけですべてをつくる必要はない。世界にはほかにいろんな力がはたらいている。それらが助けの手をさしのべてくれたり、必用な条件をととのえてくれたりするんだ、とね。
こういう確信をぼくは、『モモ』のマイスター・ホラという人物にたくした。
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この「…にもかかわらずの希望」の話は、1991年刊の「エンデの文明砂漠」でも同じように語られている。
・・・「希望」は「ものごとがそうだから」もつものではなく、「物事がそうであるにもかかわらず」もつものなのです。
人類がこの地球上でなすべきことをすでに終了したとは思いません・・・
マイスター・ホラは時間を止める前に、モモに1時間分の時間の花を与える。時間が過ぎるとともに、花びらは散っていく。
奪われた時間貯蔵庫の扉を、モモは花びらで触れて閉め、時間の供給を絶たれた時間泥棒たちが消え去ったあと、残った最後の1枚の花びらで扉を開ける。
小さなモモと最後の1枚の花びらによって為されたことが、どれほど大きなことだったのか、人々は知らない。
人間時間の中ではまばたきするほどのあいだに、超自然的なはたらきが入り込まないともかぎらない。
posted by Sachiko at 21:44
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2022年05月13日
「内と外」
ヘルマン・ヘッセのあまり知られていない短編「内と外(Innen und Aussen)」。
------------
論理学と科学を愛する主人公フリードリヒは、神秘主義的なものは迷信や魔術と呼んで忌み嫌っていた。
ある日久しぶりに旧友エルヴィーンの家を訪ねると、壁に留められた紙に書かれた言葉が目に入った。
「何ものも外になく、何ものも内になし。外にあるものは内にあればなり。」
これこそフリードリヒが嫌う神秘主義、魔術の世界であり、この旧友とは絶縁するしかないと考え、別れの言葉を告げた。
エルヴィーンは、「これが君の外ではなく内にあるようになったらまたやって来たまえ」と、小さな粘土の像をフリードリヒに渡し、その像がいつまでも外にあり続けたら、その時が別れだと言った。
フリードリヒはその像が気に入らなかった。像の存在はしだいに彼の生活を不快にした。
ある日小旅行から帰って来ると、像がなくなっていた。女中が壊してしまったのだ。
これで落ち着けるだろうと思ったが、今度はそれがないことが彼を悩ませはじめた。
彼は像がないのを苦痛に思い、それを悲しむのは無意味だと明らかにするために、像を詳細に思い浮かべてみた。
そうして眠れなくなった夜、ひとつの言葉が意識に入り込んできた。
「そうだ、今おまえは私の中にいる」という言葉だった。
像はもう外にはなく、内にあった。
彼はエルヴィーンの家に駆けつけた。
「どうしたらあの偶像がまた僕の中から出ていくだろうか。」
エルヴィーンは言った。
「あれを愛することを学びたまえ。あれは君自身なのだ。」
「・・・君は外が内になり得ることを体験した。君は対立の組み合わせの彼岸に達したのだ。
それが魔術なんだ。外と内を、自由に自ら欲して取りかえることが。
君は今日まで君の内心の奴隷だった。その主人になることを学びたまえ。
それが魔術だ。」
------------
書かれたのは1920年で、第一次大戦後の多産な時期であり、1919年に書かれた『デミアン』にも通じるテーマに見える。
内と外がまるで別物であり、人間は大きな外側の世界に無力な小さな存在として置かれているだけだと考えるようになったのはいつからだろう。
ミヒャエル・エンデは、創世記の「初めに神は天と地をつくられた」という部分を、「初めに神は内と外をつくられた」と訳すべきだったと言っていた。
シュタイナーは、人間は死後、内界と外界が逆転すると言っている。
生前の自分の内面を、外側に拡がる世界として体験するわけだ。
何も外になく、何も内にない.....
内と外が別物だと思っていると、都合の悪いものは外側に投影しやすい。
悪いものは常に外側、他人の側にある・・・ユング的に言えば“シャドウ”だ。
そうして投影した外界も、結局はやがて自分で回収しなければならない。
ヘッセとユングの関係についてはよく知られている。
ヘッセとシュタイナーについては特に文献等で触れられていないけれど、実際にはかなり親しかったそうだ。
------------
論理学と科学を愛する主人公フリードリヒは、神秘主義的なものは迷信や魔術と呼んで忌み嫌っていた。
ある日久しぶりに旧友エルヴィーンの家を訪ねると、壁に留められた紙に書かれた言葉が目に入った。
「何ものも外になく、何ものも内になし。外にあるものは内にあればなり。」
これこそフリードリヒが嫌う神秘主義、魔術の世界であり、この旧友とは絶縁するしかないと考え、別れの言葉を告げた。
エルヴィーンは、「これが君の外ではなく内にあるようになったらまたやって来たまえ」と、小さな粘土の像をフリードリヒに渡し、その像がいつまでも外にあり続けたら、その時が別れだと言った。
フリードリヒはその像が気に入らなかった。像の存在はしだいに彼の生活を不快にした。
ある日小旅行から帰って来ると、像がなくなっていた。女中が壊してしまったのだ。
これで落ち着けるだろうと思ったが、今度はそれがないことが彼を悩ませはじめた。
彼は像がないのを苦痛に思い、それを悲しむのは無意味だと明らかにするために、像を詳細に思い浮かべてみた。
そうして眠れなくなった夜、ひとつの言葉が意識に入り込んできた。
「そうだ、今おまえは私の中にいる」という言葉だった。
像はもう外にはなく、内にあった。
彼はエルヴィーンの家に駆けつけた。
「どうしたらあの偶像がまた僕の中から出ていくだろうか。」
エルヴィーンは言った。
「あれを愛することを学びたまえ。あれは君自身なのだ。」
「・・・君は外が内になり得ることを体験した。君は対立の組み合わせの彼岸に達したのだ。
それが魔術なんだ。外と内を、自由に自ら欲して取りかえることが。
君は今日まで君の内心の奴隷だった。その主人になることを学びたまえ。
それが魔術だ。」
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書かれたのは1920年で、第一次大戦後の多産な時期であり、1919年に書かれた『デミアン』にも通じるテーマに見える。
内と外がまるで別物であり、人間は大きな外側の世界に無力な小さな存在として置かれているだけだと考えるようになったのはいつからだろう。
ミヒャエル・エンデは、創世記の「初めに神は天と地をつくられた」という部分を、「初めに神は内と外をつくられた」と訳すべきだったと言っていた。
シュタイナーは、人間は死後、内界と外界が逆転すると言っている。
生前の自分の内面を、外側に拡がる世界として体験するわけだ。
何も外になく、何も内にない.....
内と外が別物だと思っていると、都合の悪いものは外側に投影しやすい。
悪いものは常に外側、他人の側にある・・・ユング的に言えば“シャドウ”だ。
そうして投影した外界も、結局はやがて自分で回収しなければならない。
ヘッセとユングの関係についてはよく知られている。
ヘッセとシュタイナーについては特に文献等で触れられていないけれど、実際にはかなり親しかったそうだ。
posted by Sachiko at 22:18
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