ミヒャエル・エンデ『モモ』より。
時間の国にたどり着いたモモが出会ったのは、不思議な人物マイスター・ホラだった。マイスター・ホラは星の時間について語る。
「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こり得ないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。」
時間は、いのち。
それなら時間の国は、つまりはいのちの国で、マイスター・ホラは人間に“時間”という姿でいのちを配っている。
「もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったらどうなるの?」
「そのときは、おまえじしんの時間もおしまいになる。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。
人生を逆にもどっていって、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出て行くのだ。」
このあたりはシュタイナーの思想が色濃く反映されて見える。
人は星々のあいだを通り、太陽を通り月を通って生まれてくる。ある時間、ある特定の場所で生まれる人間はひとりしかいない。たとえ双子でも、時間が少しずれている。
生まれてくることはそれほど特別なことで、まさにひとりひとりが、一回きりの星の時間だ。
そして人は生まれたときの星空をエーテル体に写しとっているという。
誕生日に星空を見上げることができ、自分がどれほど特別な宇宙的存在なのかを思い出すことができたら、その度に新しいいのちを与えられるような気分になれるのではないかと思う。
モモはたずねる。
「あなたは死なの?」
「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」
この会話のあと、モモはマイスター・ホラの腕に抱かれて、あの咲いては散る“時間の花”を見る。
どの人間にも、モモが見たような場所がある。でもそこへ行けるのはわたしに抱いてもらえる人だけだ、とマイスター・ホラは言う。
つまり、死の腕に抱かれるときに、ということだろうか。
そのとき、時間=いのちの源で、あの荘厳な時間の花と宇宙の音楽に満たされることができるなら、死は恐ろしくはないだろう。
これが子供の本だって?
そうなのだ。子供は銀の門をくぐってやって来てからそう長い時間が経っていない。星の音楽の響きが、まだかすかに残っているかもしれない。
このような物語から、その響きのひとかけらを大人も思い出す。
ミヒャエル・エンデは『モモ』の挿絵をモーリス・センダックに描いてもらいたがっていたそうだ。でも諸事情で叶わず、結局エンデ本人が描くことになった。
センダックの挿絵はきっとすばらしかっただろうが、今となってはエンデのペン画以外には考えられないくらい物語とひとつになっている。
posted by Sachiko at 22:24
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