2024年02月23日

ベアトリーチェ

ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」というアンソロジーをパラパラと見ていたら、見覚えのある文章があった。「外界と内界」という章なのだが、中身は「デミアン」の中の一節だ。

「庭仕事の愉しみ」は、ヘッセの没後30年の1992年に刊行されたものなので、内容は編纂者によって選択されている。
それで久しぶりにデミアンを手に取ってみた。
目に付いたのは「ベアトリーチェ」の章で、主人公の青年が自堕落な生活に陥っていた時、ある日公園で見かけた少女に強く惹かれる。

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私は彼女にベアトリーチェという名前をつけた。
ダンテを読んだことはなかったが、自分のしまっていたイギリスの絵の複製によってベアトリーチェのことを知っていた。
それにはイギリスのラファエル前派の、手足の非常に長くすらりとした、頭が細長く、手や表情が精神化された少女の姿が描かれていた。
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私もダンテは読んだことがなく、ラファエル前派の絵はたぶん、ロセッティの“ベアタ・ベアトリクス”かと思ったが(ベアトリクスはイタリア語ではベアトリーチェ)、手足が長いと書かれているのに、この絵は上半身しか描かれていない。

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調べてみたらベアトリーチェを描いた作品は他にも何点かあるけれど、家にあるラファエル前派の画集には載っていなかった。

ダンテは子どもの時にベアトリーチェに出会って強く恋心を抱いたが、ベアトリーチェ本人は若くして亡くなっている。ダンテにとってベアトリーチェは象徴的な崇拝の対象となっていたようだ。

この話はどこか、ノヴァーリスと、彼にとってのマドンナだった15歳で亡くなった恋人ゾフィーの関係を思い出させる。
「デミアン」にはノヴァーリスの名も出てくる。

そして、主人公の青年シンクレールが友人デミアンの母であるエヴァ夫人に抱いた想いにも似ている。

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・・・自分の本性が引きつけられて目ざす対象としているのは彼女その人ではなくて、彼女は私の内心の象徴であるに過ぎず、私をひたすらより深く私自身の内部に導こうとしているのだ・・・
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ところでデミアンの本の中に、古い四つ葉のクローバーが挿まれているのを見つけた。これは憶えている。学生の時、1級下の男の子からもらったものだ。
互いに好意を持っていたことはわかっていたけれど、お付き合いには至らなかった。全くの余談.....
  
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(6) | ヘルマン・ヘッセ
2024年02月12日

「白蛇」

動物の言葉つながりで、グリム童話の「白蛇」。
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昔ある国の王さまがいつも、食事のあとでもうひとつのお皿を持ってこさせるのですが、誰もその中身を知る者はいませんでした。

ある日ひとりの家来がどうしても中を見たくてたまらなくなり、こっそりふたを取ってみると白い蛇が一ぴき入っていました。家来は食べてみたくてがまんができず、一切れ切って口に入れました。

すると、動物の言葉がわかるようになったのです。
ちょうどこの日、お妃の指輪がなくなったという騒ぎが起こり、この家来に疑いがかけられ、王さまは、もし明日までに犯人を見つけることができなければお前を処刑する、と言いました。

家来がどうしたものかと考えていたところ、鴨たちが話している言葉が聞こえてきました。一羽の鴨が指輪を飲みこんでしまったというのです。
家来はその鴨をつかまえて料理人にさばいてもらうと、胃の中から指輪が見つかりました。

王さまは疑いをかけた埋め合わせに、何でも望みをかなえてやろうと言いましたが、家来は馬と旅費だけをいただいて、世の中へ旅に出ることを願い出ました。

そうして旅に出た若者は、茂みに挟まった魚たちを助けたり、蟻を踏まないように道の脇によけたり、巣から落ちた子鴉たちを助けたりして、それらの生きものたちから感謝されます。

やがてある国のお姫さまがお婿さんを探していることを知って申し出ますが、お姫さまは次々と無理難題を与え、そのたびに若者は助けた動物たちのはたらきに助けられます。
最後に鴉たちが持って来た生命の木の実を食べるとお姫さまは若者を愛するようになり、二人はそれからいつまでも幸せに暮らしました。

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動物の言葉がわかるようになることと、助けた動物たちから恩返しを受けること、おとぎ話に典型的なふたつの要素が入っている。
アーシュラ・K・ル=グウィンの「子どもと影と」というエッセイの中にはこんな記述がある。

「動物たちに感謝されるか、あるいは何らかの理由で動物たちに助けられる人物が必ず勝利を得る」
「家路を知っているのは動物です。わたしたちの内なる動物、影の魂こそが案内人なのです」

「白蛇」の中の若者が助けた動物たちも、「あなたを忘れません。いつかご恩返しをします」と言い、彼が窮地に陥ったときに助けに現れる。
動物が魂の象徴であるなら、自分自身の影の魂を救う者が勝利の光を得ることになる。

この「白蛇」や「聞き耳頭巾」など、特別な方法を経て動物の言葉がわかるようになる話がある一方で、「赤ずきん」の狼や「雪白とばら紅」の熊のように、最初からあたりまえのように動物と話ができる物語もある。
動物と話す能力を得るために何らかの道具やプロセスを経なければならないのは、原初的な力を失った比較的新しい時代の物語なのだろうか。

助けた動物が恩返しをする話は日本にもあるが、浦島太郎にしても鶴の恩返しにしても、最後に一ひねりあってハッピーエンドになっていないのはなぜだろう。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | メルヒェン
2024年02月02日

神話の動物

「どこの土地でも、神話の動物は地球上の先輩たち、しばしば人間の先祖とみなされる」

動物は人間よりも早く地上に降りた。
先祖とみなされるのはある意味間違いではない(猿が先祖だという例の説はそれとは別の意味だが)。
動物や植物が先にやってこなければ、人間は地上で生きて行くことはできなかった。

以前にも書いたけれど、アイヌ民族にとって熊はキムンカムイ(山の神)であり、他の動物も植物も、山も川も自然界のすべてはカムイだった。

人を襲うようになった熊はウェンカムイ(悪い神)と呼ばれる。
近年ウェンカムイが多くなったのは、緩衝地帯の里山が減ったというだけでなく、人間が野生動物と魂レベルで繋がることができなくなってしまったからではないかと思う。


メルヒェンにもよく熊が登場し、ドイツのベルリン(Berlin)やスイスのベルン(Bern)の“Ber”は、熊に由来するという。
中央ヨーロッパの野生のヒグマは絶滅危惧種になっているが、北欧や東欧にはまだいるらしい。

フィンランドの神話の中には、自分たちの祖先は熊と少女の結婚によって生まれた、という物語がある。
熊は森の支配者であり、森そのものだったという。

アイヌ民族のイオマンテのように、フィンランドでも熊猟のあとには熊の魂を天界に帰す特別な儀式があるそうだが、似たものは世界各地にあったことだろう。

生きとし生けるものすべての中にカムイ(霊格)がある。
それは古くて稚拙な考えなどではない。
むしろカムイが見えなくなった現代人は、進歩したという錯覚の中、どれほど野蛮人になってしまっていることか。

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posted by Sachiko at 15:25 | Comment(2) | 神話・伝説・民話