2026年02月21日

木に会いに行く

あるところでこんな話を聞いた。
自然界で絶滅した生きものたちは、物質界からはいなくなったように見えるけれど、別の次元には存在し、生きている。

時間は直線ではなく多重に折り重なり、過去に伐られた木も、物質としての体を失ったけれどまだそこにいる....
それなら、子供の頃にいつもその下で遊んだ木に会いに行くことはできるだろうか。

目を閉じて木の姿を思い出し、「私のこと、憶えてる?」と木に尋ねようとしたとき、出てきた言葉は「私を憶えていてくれてありがとう」だった。

木に触れてみた。粗い木肌のざらざらした感触、樹液が沁み出ていた箇所も、あの頃と同じだ。
子どもの目には大木に見えていたけれど、今見る木はやはりイメージより少し細く小さかった。

その木の姿と、周りの景色も鮮明に思い出された。
木のそばには柾屋根の小さな物置小屋と、もう一本細い小さな木が立っていた。
小さな木の根元にはアリの巣があり、たくさんの小さい赤アリが絶えず木に登ったり下りたりしていて、子どもたちは「アリの木」と呼んでいた。

とっくの昔になくなってしまったそれらが、今も別次元で生きている...
ナルニア国物語の中に似た話があった。

「ほんとうのナルニア」では、そこに意識を向けると、とっくに取り壊されたはずの屋敷をはっきりと近くに見ることができたのだ。
そして内側の世界では、よいものが滅びることはないという。

内側では、目に見える外界とは時間や空間の在り方も異なる。
よいもの美しいものに、そこではいつでも会えるのなら素敵だ....意識を向けさえすれば。
 
posted by Sachiko at 21:13 | Comment(0) | 未分類
2023年04月23日

動きの予感

サイトのアクセスが復活した後も、ブログにはほとんど訪問者がいなくなった。
思えば5月で丸5年、そろそろ転機ということかな。

このブログはサーバーのサービスとして付いているので、ブログそのものは無料で、広告も余計な情報も入らない。
何といっても、このようにポツンと一軒家的な静けさが一番のメリットだった。

過去形になっているのは、実はこのブログサービスはすでに2年前に新規登録受付が終了している。
今あるものはそのまま使えるけれど、新規受付が終わったのは、いずれブログサービスそのものをやめる方向にあるということだ。

大手のアメブロの集客力は知っているが、あの広告の多さと余計な情報は耐え難い。
私は別にアフィリエイトで稼ぎたいわけでもなく、ただ静かに書きたいことを書きたいだけなのだ。

色々調べてみても、やはりどこも一長一短ある。
というわけで、今すぐではないにしてもブログは引っ越すかもしれない。あるいはやめて何か別の形を取るとか。

でもたくさんの過去記事は捨てがたいので、ここは、サービス終了になるまでこのまま残しておこうと思う。
  
posted by Sachiko at 15:49 | Comment(2) | 未分類
2023年04月11日

思わぬトラブル

突然ウェブサイトにアクセスできなくなり調べたら、クレジットカードの更新がされていなくて、ドメイン料金未払いのため止められていた。

慌てて支払い、サーバに連絡したところ復活してくれるそうで、でも2、3日かかるとのこと。
とりあえずドメイン再取得ということにならなくてよかった。
思わぬときに思わぬことが起きるものだ。

ブログにはHP経由で来てくださっていた方が多かったようで、今日はめっちゃアクセス少ない。
HPをやめたわけではありませんので、また来てくださいね。(と言っても見ていないか....)
ご迷惑をおかけいたしましたm(_ _)m

※追記:4月12日サイト復旧しました。
posted by Sachiko at 11:04 | Comment(0) | 未分類
2023年04月06日

下方倍音

シュタイナーが語ったこんな話がある。

“今日では人間は物質的にしか音声の中に生きていないが、15世紀までの人間は、下方倍音も正しく聞き取っていた”

“かつては、同じ音が1オクターヴ下で響くように、霊的なものが共鳴した。自分が話すとき、あるいは人が話すのを聞くとき、個々の言語に分化していないもの、人間一般的なものが共鳴した”


『アナスタシアーーロシアの響きわたる杉--』シリーズの中に、それを思い起こさせる記述がある。

アナスタシアは、異なる民族の言語を理解することができる。
言葉を発する人の、言葉の背後にある感情、思い、イメージなどを読み取ることで、相手の言っていることを理解する、という話だ。

これはまさに、“個々の言語に分化する前の霊的なもの”を聞き取っているのだ、と思った。


人類は古い時代からかなり広域での交流を行っていた。
職業通訳などいなかった時代に、言葉をどうしていたのだろうと、私は以前から不思議に思っていた。
この「下方倍音」を聞きとるという話で、いくらか謎が解けた気がする。

現代人がもはや正しく理解することのできない、神話や伝説、メルヒェンの中のイメージ言語は、下方倍音を聞き取る能力によって、霊的な源泉から汲み取られ語られたものなのだろう。

現代語は霊性を失って物質言語と化し、「言葉は単なるコミュニケーションツールにすぎません」と言い切る人も少なくない。

けれど、言葉の背後にある霊性なしには、単なる意味伝達ではない真のコミュニケーションは難しい気がする。
もはや聞こえない下方倍音という共通の泉に安らうことのできる交流は、どんな感じだろうか。
  
posted by Sachiko at 21:19 | Comment(2) | 未分類
2023年02月28日

少年は失敗から学ぶのか...?

優れた児童文学に登場する子供たちは、現実にはめったにないほど賢く描かれていることが多い。(もちろんそうではない場合もある)

そして、子どもたちの周辺にいて彼らを見守る大人たちも、めったにお目にかかれないほど賢い人々だ。(もちろんそうではない人々も登場する)

「グリーン・ノウ物語」の中の子供たちと、オールドノウ夫人。
「飛ぶ教室」の少年たちと、ベク先生や禁煙先生。
「夜のパパ」のユリアと、青年ペーテル。
これはまだ紹介していないけれど「ツバメ号とアマゾン号」の4人きょうだいとその両親など。
優れた作品は賢い大人が書いているので当然そうなり、それが作品の質を高くする。

けれど現実世界でも、表面的には見えない子どもの叡智というものは確かにある。
子供がまだ小さいからわからないだろうなどと思って、そばで大人が良からぬ話をしていたり、嘘をついていたり、両親が険悪になったりしているとき、子供はすべてわかっている。

幼いので大人が使う言葉そのものを、辞書的な意味で理解はしていないかもしれない。でも体の感覚、生命の感覚として、空気の中に満ちているものを感じ取る。
動物はある種の霊視力を持つと言われているが、幼い子供にはそれに似たものがまだある気がする。


こんな話を持ち出したのは、ここでリンクを貼っているブログ(ちなみに書いているのは男性)の中に面白い話を見つけたからだ。
転載自由とされているので書いてしまおう。

「・・・男の子は自分の行為の結果として、痛い目に遭わなければ学習しない生き物だからです。
だから、男の子は何でもかんでも(いいことでも悪いことでも)やってみようとするのです。」

「女の子の方は男の子よりも賢いので、やらなくても先が読めてしまうのです。」


別のところで似たような言葉を見たことがある。
例えば何かの犯罪などを犯してしまい、その行為の結果を引き受けるプロセスの中で学ぶという人生を選ぶ人がいる。
一方、実際にやってみなくても、見るだけで十分な人もいる、と。

女性は本来生命感覚に優れていて、女性の身体は宇宙生命に直結している。
女性は特攻隊などというものは思いつかない。
(近年の、男性そっくりになって男性と同じことをするのが平等だと思い込まされた女性たちはどうかわからない。)


男の子は痛い目に遭わなければ学習しない....男の子が大きくなった、大人の男性はどうだろう。
時々、それなりに地位もキャリアもある大人が、しょうもない犯罪(少額の収賄とか覗きとか)で、人生を棒に振ってしまうケースがある。先が読めなかったのだろうか。

かつてC・G・ユングは、「このまま男性原理の社会が続けば、人類は核兵器によって滅びるだろう」と言っていたそうだ。

少年時代に学習しないまま大人になったような人々が、大きな権力を手にして突き進んだ場合、たいてい結果を引き受けるのはその本人ではなく一般市民なのだ。
   
posted by Sachiko at 21:48 | Comment(0) | 未分類