2025年09月11日

アザミの冠毛

しばらく前からフワフワした綿毛のようなものが舞っていた。

ポプラの綿毛の季節はとっくに過ぎているし、何だろうと思っていたら、近くに生えているアザミの花が終わって白い綿毛になっているのが風でほぐれて飛んで行くのを見た。

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どこもかしこもトゲだらけのアザミだけれど、この冠毛は柔らかい。
アザミの冠毛といえば、こんなお話を思い出す。

『ノーム』の本の中に、ノームの妻はアザミの冠毛を梳いて繊維にして毛糸を作ると書かれている。

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ノームたちは自然と一体で、植物と親しく、互いに持てるものを分かちあう。アザミの冠毛の話も、そんな優しいつながりのひとつだ。


春はタンポポ、初夏はポプラ、初秋にアザミの冠毛が風に舞う。
そうして、冬には雪.....
もうすぐ、一気に気温が下がってきそうだ。

posted by Sachiko at 22:02 | Comment(2) | 自然
2025年07月25日

ウラギンヒョウモン

今年初めてやってきた、ウラギンヒョウモン。
特別珍しい種類ではないけれど、個体数はそう多くないそうだ。

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以前来ていた絶滅危惧のウラギンスジヒョウモンは、2年ほど見かけていない。ヒョウモンの仲間は、後翅の裏側の模様をよく見なければ種類がわかりにくい。

本州では高地にしか生息していないのに北海道では平地でも見られるという蝶は多い。
でもここ数年、とくに今年の暑さでは、それらの蝶もやがて山の上に生息地を移してしまうのではないか、うちの小さな庭にはいつまで来てくれるだろうか...と思う。

庭に来る昆虫や、夏の花、種から育てて実をつけてきた夏野菜。夜明けに聞こえるシジュウカラの声。
巷に溢れる情報の喧噪はもういい。自分の感覚で感じることのできる、こういう小さなリアルを大切に暮らしたいと思う。
 
posted by Sachiko at 16:24 | Comment(2) | 自然
2025年07月13日

緑の実

暑さの中、気がつけば花の季節から実の季節に移っている。
まだ色づかない実は、葉のあいだでひっそりと目立たない。

透明な薄緑がみずみずしいグースベリー。

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ブラックカラント、ラズベリー、ブラックベリー、リンゴンベリー...

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若いほおずき、姫リンゴ、ブドウ...

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まだ夏休みも始まっていないのに、次の季節の澄んだ空気がすうっとひとすじ吹き込んでくるような、緑の実。
 
posted by Sachiko at 22:19 | Comment(2) | 自然
2025年01月28日

もうひとつの...冬?

1月だというのに、もう何週間も最高気温がプラスの日が続いている。
体がなまってしまうような生ぬるさだ。

あるところで、九州の冬景色の写真を見た。
一面の枯れ野は、文字通り枯れ色一色の、何とも不思議な見たことのない景色。

あの季節は...何と呼ぶのだろう。
冬ではない。冬というのは一面真っ白な雪景色のことだ。
そのもうひとつの冬は、私の知らない異界の季節のように見える。
もっとも向こうから見れば、真っ白な根雪が異界のように見えるだろう。日本は縦に長いのだった。

思えば北海道では、これほど枯れ色一色にはならない。(雪の少ない道東では、春先など一時的になるかもしれない。)
たいていは秋の色が残っているうちに雪が降ってしまう。
紅葉、赤いバラの実、まだ緑を残している草たち、冬も緑の針葉樹....そこに、ある日雪が降る。

葉が落ちて赤い実だけが残ったナナカマドに雪が積もっている様子を、九州よりもっと南の国から来た人たちが嬉しそうに写真に撮っている姿を時々見かける。


それにしてもこの暖かさ。
昔の1月は最高気温がマイナス10度という日が続くのが珍しくなかったのに、この冬は最低気温すらマイナス10度以下にならない。
2月に真冬日が戻って来ても、もう光が春の明るさになっている。

四季は自然界の4つのエレメント(地水火風)に対応し、人間の4つの気質にも対応している。
地球上で四季がすべて揃う地域は少ない。

現代社会が胆汁質(火と夏の気質)に偏りすぎていることが、実は温暖化の原因ではないかと思うけれど、どうかな。
 
posted by Sachiko at 15:58 | Comment(0) | 自然
2024年08月15日

自然音の不思議

昨夜、虫の音を聴きに外へ出てみた。
雨あがりの草の上や、伸びすぎたアスパラガスのレースのような葉っぱには、たくさんの小さな水滴がキラキラと光っている。

あちこちの草むらから、数種類の虫の声が響き合う。
いつまでも聴いていたくなる、何と心地よく美しい音色♪

鳴く虫は姿を見つけにくく、名前もわからない。
リーリリリーときれいな音が聞こえるのだけど、北海道にはスズムシはいないと言われているしこれは何の虫だろう。

虫の音が心地よい音色として聞こえるのは日本人とポリネシア人だけだそうで、他の人々には騒音のようにしか聞こえないというのがどうも不思議だ。

欧米人などは右脳で聞くのに対し、日本人は左脳で言葉として聞くからだというのだが、右脳(音楽脳)で聞くなら、美しい音楽として聞こえてもよさそうなものを。


虫の声だけでなく、川のせせらぎや葉擦れの音、雨の音などの自然音も同様なのだという。せせらぎの音をじっと聴いていると、何かの言葉に聞こえてくる。
日本人はそれらの音を言葉として聞くということは、雨や風とも会話ができるのだ。
もっとも最近では、蛙の声がうるさいから田んぼを潰せなどと言う理不尽なクレーマーも現れているらしい。

ところで私は、最近の花火大会が音楽やレーザーアートとコラボしているのがどうにも違和感がある。
花火の背景の闇、花火と花火の“間”の静寂。それらが消されてしまっているのが、なにか不穏な意図に感じられてしまう。

あの闇と静寂は、あってはいけない、埋め尽くさなければいけないものなのか?
自然音はむしろ、闇や静寂に近いところにあるもののような気がする。
だから、暗闇や静けさを恐れる現代人は、しだいに自然音をも怖れるようになってしまったのだろうか。

今日は久しぶりに蝉の声を聞いた。
昔は朝から聞こえていたこの夏の音は、今では郊外へ行かなければ聞くことができなくなっている。
 
posted by Sachiko at 16:37 | Comment(2) | 自然