2025年02月09日

ギムリの願い方

とても久しぶりに『指輪物語』から。

ガンダルフを失った旅の一行は、ロリエンの都に入った。
数日滞在したのち、出発の日にガラドリエルの奥方は、ひとりひとりにふさわしい贈り物を与える。

アラゴルンには緑色のエルフの宝石、ボロミアには金のベルト、メリーとピピンには小さな銀のベルト、レゴラスにはこの地のエルフの弓矢、サムにはガラドリエルの庭の土が入った小箱。

「してドワーフはどのような贈り物をエルフに所望されるだろうか?」

ギムリは何も所望せず、ガラドリエルに会えて言葉を頂けただけで十分と答えるが、ガラドリエルは、欲しいものがあるならそれを言うように命じる。

「・・・こんなお願いをすることを、いえ、お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら、奥方様のお髪を一筋いただけましたらと、存じます。
―――わたくしはこのような贈り物をいただきたいとは申しませぬ。ただわたくしの望みを口にするようにお命じになりましたので。」

エルフたちが驚く中、奥方は髪の毛を三本切り取ってギムリの手に置いた。

そして最後にフロドに光を集めた水晶の瓶を渡すと椅子を立ち、一行は船着場から小船に乗り込んだ。

旅の一行それぞれに贈り物が用意されていた中、なぜかギムリだけが望むものを言うように命じられる。
ギムリの答えは、望むのではなく、ただその望みを口にするだけ。

「お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら....」

そして、それは叶えられた。


人間、エルフ、ドワーフ、ホビット...
それぞれの種族から集められた旅の仲間の中で、私はドワーフのギムリにあまり関心を持っていなかったけれど、この願いの場面はなぜか印象に残っている。

ガラドリエルには、それぞれが必要とするもの、ふさわしいもの、役立つものが見えていた。が、ギムリの願いはそのようなものではなかった。

「・・・地上の金をことごとく集めても奥方様の髪の毛一筋には及びませぬ。」

一筋の髪は、ガラドリエルに対する、言葉にもかたちにも表しきれない最高の敬意と賛美の象徴なのであり、故にこの贈り物は、あらかじめ用意しておくことのできないものだったのだ。

ロリエンの地が見えなくなった後、ギムリは言った。

「わたしはいちばん美しいものの見おさめをしてきた。
これから後、わたしはいかなるものも美しいとは言うまい。奥方からいただいたこの贈り物をのぞいては。」


フォークロアの中のエルフやドワーフは、妖精や鉱山の小人として描かれるが、この『指輪物語』においてはどの種族も超自然的な存在ではなく、ある意味みんな「人間」である。

そしてファンタジーの語り口は、高貴なエルフも邪悪なオークも他のすべての存在も、壮大なタペストリーの中の欠かせない図柄の一部として物語を彩らせる。
 
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | ファンタジー
2024年05月17日

バスチアンの最後の望み

先日書いたヘッセの『アウグスツス』の物語で、与えられるばかりの愛に絶望したアウグスツスは最後に「ぼくが人々を愛することができるようにしてください!」と願った。

この願いは、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』の、バスチアンの最後の望みを思い出す。

不思議なアイゥオーラおばさまの「変わる家」で、バスチアンの中に、愛することができるようになりたい、という憧れが目覚めた。
生命の水を飲んだら、それができるようになるという。
バスチアンは、生命の水が湧きでる泉を探して旅に出る....


以前ある人が言った、教育の目的はものを覚えることでも何かできるようになることでもなく、愛することと感謝することだ、という言葉が印象に残っている。
もちろん知識や技能を得ることは必要だけれど、知識や技術の分野はすでにテクノロジーが席捲している。

では人間として生きることの目的は何か...教育の目的ということは、それは人生の目的そのものでもあるのだろう。
バスチアンやアウグスツスのように、紆余曲折を経て人はそこにたどり着くか、あるいはたどり着かないこともあるだろう。

愛することができるようになりたい、という最後の願いは、願った瞬間、すでに実現が約束されているような気がする。

ずっと昔、人は生きていればいろいろ困難なことがあり、時には耐え難く感じ、中には命を絶ってしまう人もいるけれど、ほとんどの人はそれでも生き続けるのはなぜだろう、と思ったことがある。
そして、もしかしたら生命そのものが喜びなのではないか、と思った。


最後の望みを見出す前に、バスチアンはファンタージエンで多くの望みを叶え、それ故の間違いも犯す。
エンデはこの物語に関して何度も“失敗の神秘”ということを言っている。

「失敗に次ぐ失敗、そのおかげでバスチアンは最後に正しい道を見つけました」

そして、万事休した時に転換が起きる、とも言っている。
バスチアンはファンタージエンにおいて、まさに万事休していた。

思えば人類史は、失敗に次ぐ失敗を繰り返し、今また、まさに万事休している。
ここで転換が起きるのか、最後に正しい道を見つけることができるのか...

競争して勝つことでもなく、奪いあってより多くを得ることでもなく、「愛することができるようになりたい」という願いに突き動かされ満たされたなら、思いもよらない転換が起き得るかもしれない。

「僕は、人類がこの地球上で為すべき役割をすべて果たし終えたとは、到底思えないんだ」(ミヒャエル・エンデ)
私もそう思う。
  
posted by Sachiko at 22:25 | Comment(2) | ファンタジー
2023年11月04日

マイスター・ホラ

ミヒャエル・エンデ『モモ』より。

時間の国にたどり着いたモモが出会ったのは、不思議な人物マイスター・ホラだった。マイスター・ホラは星の時間について語る。

「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こり得ないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。」

時間は、いのち。
それなら時間の国は、つまりはいのちの国で、マイスター・ホラは人間に“時間”という姿でいのちを配っている。

「もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったらどうなるの?」

「そのときは、おまえじしんの時間もおしまいになる。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。
人生を逆にもどっていって、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出て行くのだ。」


このあたりはシュタイナーの思想が色濃く反映されて見える。
人は星々のあいだを通り、太陽を通り月を通って生まれてくる。ある時間、ある特定の場所で生まれる人間はひとりしかいない。たとえ双子でも、時間が少しずれている。
生まれてくることはそれほど特別なことで、まさにひとりひとりが、一回きりの星の時間だ。

そして人は生まれたときの星空をエーテル体に写しとっているという。
誕生日に星空を見上げることができ、自分がどれほど特別な宇宙的存在なのかを思い出すことができたら、その度に新しいいのちを与えられるような気分になれるのではないかと思う。


モモはたずねる。
「あなたは死なの?」

「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」

この会話のあと、モモはマイスター・ホラの腕に抱かれて、あの咲いては散る“時間の花”を見る。
どの人間にも、モモが見たような場所がある。でもそこへ行けるのはわたしに抱いてもらえる人だけだ、とマイスター・ホラは言う。

つまり、死の腕に抱かれるときに、ということだろうか。
そのとき、時間=いのちの源で、あの荘厳な時間の花と宇宙の音楽に満たされることができるなら、死は恐ろしくはないだろう。

これが子供の本だって?
そうなのだ。子供は銀の門をくぐってやって来てからそう長い時間が経っていない。星の音楽の響きが、まだかすかに残っているかもしれない。
このような物語から、その響きのひとかけらを大人も思い出す。


ミヒャエル・エンデは『モモ』の挿絵をモーリス・センダックに描いてもらいたがっていたそうだ。でも諸事情で叶わず、結局エンデ本人が描くことになった。
センダックの挿絵はきっとすばらしかっただろうが、今となってはエンデのペン画以外には考えられないくらい物語とひとつになっている。
  
posted by Sachiko at 22:24 | Comment(2) | ファンタジー
2023年01月29日

ジジの悲劇

ミヒャエル・エンデ『モモ』より。

モモの二人の親友のうちのひとり、観光ガイドのジジは、物語を話すことが何よりも好きだった。
モモと出会ってからは特に、彼の空想力はすばらしく花開いた。

モモが円形劇場から姿を消してすぐ、新聞に「ほんとうの物語の語り手としての最後の人物」という見出しで、ジジについての長い記事が出た。

ジジはたちまち人気者になり、ラジオやテレビに出演し、まもなく大邸宅に移り住んだ。
ますます膨らんでくる需要に追いつけず、ある日ジジは、モモだけのために作ってあった物語を話してしまう。


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でもこの話もほかのどうよう、みんなはよく味わいもせず飲みこんで、またたちまちわすれてしまいました。そして、あとからあとから話を要求するのです。
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ジジに起こったことは、エンデ自身に起こったことでもあったそうだ。

最初の児童文学『ジム・ボタン』シリーズの成功によってマーケティング機構に巻き込まれたエンデは、、PRプロモーションイベントに駆り出され、百貨店でサイン会までしなければならなかった。

「・・・ここでわたしがしているのは、いったい何なのか?こうはなりたくないと思っていたのに、今わたしはそこへ行きついてしまったのだ。」
(『ものがたりの余白』−エンデが最後に話したこと−より」

エンデは世間が自分を忘れるまで、マーケティングの騒々しさを拒否することにした。そうして10年の沈黙の後、『モモ』が生まれた。


もう何も考えだせなくなったにもかかわらず、成功に見放されるのが怖くなったジジは、今までの物語を少し変えただけのものを話すが、誰もそれに気がつかず、注文が減ることもなく、今や大金持ちの有名人になっていた。
それこそ、彼がいつも夢見ていたことだった。

昔の友だちが懐かしくてたまらなくなったジジは、灰色の男たちのことをみんなに話そうと決心する。
そのとたん、電話のベルが鳴った。


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「おまえをつくり出したのはわれわれだ。おまえはゴム人形さ。われわれが空気を入れてふくらましてやったのだ。
・・・
おまえがいまのようになれたのは、おまえのそのけちな才能のおかげだとでも、ほんきで思っているのか?」
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ジジのにわか成功の背後には、灰色の男たちが関わっていた。そして、真実を語ろうと決めたジジを脅す。
このあたりは、今あらためて読み返してみるとかなり怖い個所だ。

成功し有名で影響力のある人物が、何らかの真実を明かそうとした時に不慮の死を遂げるようなことが、時々起こっていないだろうか?
モモの世界の人々は、気づかないうちに灰色の男たちの策略に巻き込まれていった。

灰色の男たちに対抗するのに、デモや人々への説得という普通の方法は役に立たなかった。
以前にも書いたように、モモは行為ではなく“存在”においてヒーローだったのだ。
どうすれば、何をすればいいのかと行き詰まったときに、“わたしはどう在るのか”ということが別次元の道を開いたりする。

モモが書かれてからちょうど50年、子ども向けファンタジーという姿を借りて描かれた世界は、ますますリアリティを増して見える。
  
posted by Sachiko at 22:30 | Comment(2) | ファンタジー
2022年05月27日

先を行く人

このブログを始めたばかりの頃、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』を扱った。
思えばこれは一回でサラっと流してしまうのはもったいない名作だった。

少しおさらいすると、エミリーとシャーロット姉妹と人形たちの物語で、主人公のトチーは古い小さな木の人形だ。
人形たちはプランタガネット家という家族を作って楽しく暮らしている。

そこに、見た目は美しいマーチペーンという人形がやってきて、プランタガネット家に危機が訪れる。
姉のエミリーがすっかりマーチペーンに夢中になり、楽しかった人形たちの世界が台無しになってしまった。
妹のシャーロットは、そんなエミリーのやり方を改めようとしていた。

小さな人形のトチーは言う。

「エミリーは、考えつくほうよ。シャーロットがぼやぼやしている間に、エミリーがいろんなことを考えついて、どしどし実行してしまうのよ。
あの子のように先に立って進む者は、時にはきっと間違うことがあるわ。

後からくる者から見たら、『これは間違いだった、あれは間違いだった。』というのはかんたんでしょう。

あとからくる者には正しい道がわかるのよ。選ぶ必要がないから。
エミリーはよく間違ったものを選ぶわ。」

そして人形たちは、エミリーが間違いに気づくことを願い続ける。
人形たちは、子供たちに遊んでもらわなければ口をきくことも動くこともできない。
人形たちにできるのは、ただ願うことだけ。

そうして人形の家に大きな悲劇が起きたあとで、エミリーは元のエミリーに戻る。
そして、めったに何かを思いつくということのないシャーロットが、マーチペーンを博物館にあげてしまうことを思いついた....


先に立って進む者は間違える。後から行く者は、その間違いがわかる。人形トチーの言葉は深い。

時には先頭を行く間違えた者のあとを、大勢がそのままついて行ってしまうこともある。
エミリーは自分の間違いに気づいた。

自分が間違っていたことに気づいて改める、これは人間にとって難しいことのひとつだ。
特に、集団心理のようなものが暴走する時には。

大人の作品も多く書いているルーマー・ゴッデンは、子供の本を書くときに、特に子供向けに言葉を変えるようなことはしないと言った。
この点は、多くの優れた子どもの本の書き手たちはみんな同じように言っている。

いかにも「子ども向け」という本は私は好きではない。
幼い子どもへの配慮は必要だが、子どもは自分が表現できるレベルの言葉しか理解できないと思い込むのは、子ども時代をすっかり忘れてしまった大人の傲慢というものだ。
    
posted by Sachiko at 22:23 | Comment(2) | ファンタジー