ずいぶん昔に買ったままほとんど読んでいなかった『トールキン小品集』の中にある、詩で綴られた「トム・ボンバディルの冒険」を読んでみた。
指輪物語でフロドたちが旅に出て間もない頃、古森のトム・ボンバディルの家に立ち寄る。そこでいっしょに暮している川の娘ゴールドベリという存在のことが気になっていた。
長い詩の中で、そのゴールドベリのことが書かれている。(この本ではゴールドベリーと表記されている)
---------
・
・
長いひげを川面にたらせば
川の精の娘ゴールドベリーが顔を出し
トムのひげをぐいとつかむ。どぼんと落ちた睡蓮の下
・
・
ある日 ついに川の娘をつかまえた。
緑のガウンをまとい 髪をなびかせ 藺草のなかにすわり
繁みに住む鳥に川の歌を教えていた少女を。
トムは娘をつかまえた。川ねずみが走りまわり
蘆はざわめき あおさぎは声をあげ 娘の心は高鳴った。
トム・ボンバディルは叫んだ。「可愛い娘さん。
さあ、いっしょに行こう。食卓にはごちそうがいっぱい。
・
・
トムが挙げた陽気な結婚式
羽根つき帽子をぬぎすてて きんぽうげが冠
花嫁は銀糸織りの緑衣で装い
頭の冠は わすれなぐさとゆり。トムは提琴にあわせて
むくどりのように声を張りあげ 蜜蜂のように声をおとし
水の精のやさしい胸を抱きしめる
・
・
「可愛い人 来てごらん らんらんらららら」
戸口にすわったトムが柳の小枝をぽきんと折れば
ゴールドベリーは黄色く光る髪を梳くのだった。
----------
ゴールドベリは、川の精の娘だった。
「水底の 母さんのところに帰っていった」という記述がある。
娘がトム・ボンバディルと結婚したことを、川の精は嘆いていたようだ。
トム・ボンバディルが何者なのかは、指輪物語の本編でもあまり詳しくは語られていない。
『トールキン小品集』の訳者あとがきによれば、トム・ボンバディルは神でも人間でも自然の精でもなく、神と人間、自然と文化、秩序と混沌のいずれにも自由に出入りし、地上の善悪の倫理をこえる完全に自由な者、生命全体を支配する自律的な存在、と解釈されている。
トールキン自身はどう考えていたのか、他の本に何か書かれているかもしれないと思い、指輪物語の姉妹編である『シルマリルの物語』と『終わらざりし物語』の索引を見て見たが、そこにはトム・ボンバディルの名前もゴールドベリの名前もなかった。
「とっつぁん」(サムの父ハムファスト・ギャムジー)は書かれているのになぜだ!と思ったが、物語全体にはあまり関わりがないからだろうか。
ガンダルフも、トムは指輪の旅などに興味がないというようなことを言っていた。
自然神パンのイメージに似ている気もするけれど、見た目は羽根つき帽子をかぶったずんぐりしたおじさんの姿をしている。
それともたまたまその姿が気に入っているだけで、ほんとうはどんな姿をとることもできるのではないか、とも思う。
2026年04月11日
ゴールドベリの歌
posted by Sachiko at 23:06
| Comment(0)
| ファンタジー
2026年01月20日
床屋のフージー氏
久しぶりに『モモ』(ミヒャエル・エンデ)より。
物語の中で、最初に灰色の男たちに捕えられたのが床屋のフージー氏だ。
ある雨の日、フージー氏は不意に自分の人生に疑いを持ち始める。
仕事はそれなりに楽しく、お客とのおしゃべりも嫌いではなかったのに。
「おれはなにものになれた?たかがけちな床屋じゃないか。もしもちゃんとしたくらしができてたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!・・・そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。」
そのとき店の前に車がとまり、灰色ずくめの紳士が降りてくる。
紳士はフージー氏がいましがた考えていたことを言い当て、時間の倹約をすすめて奇妙な計算を始める。
仕事や毎日の必要なことに使っている時間をすべてムダといい、年とった母親の相手をすることやインコの世話、合唱団の練習、友だちと会ったり本を読むことも、役に立たないことへの時間の浪費と言い放つ。
そしてフージー氏が秘密にしていたこと.....毎日花を持って車いすのダリア嬢を訪ねていたこと、さらに、寝る前に窓辺にすわってその日のことを思い出す習慣も、ムダ。
人生の時間から、これまでムダにしてきた時間を引くと、残り時間は...ゼロ!この計算こそ、灰色の男たちが何万もの人間をだますのに使ってきた手口だという。
時間のムダ、時間の節約....これは『モモ』が書かれてから半世紀以上も経った今も、ますます盛んに叫ばれている。時短、効率、生産性....
灰色の男がやって来たとき、フージー氏は寒気を感じる。怪しげな計算が進むと、くちびるが紫になるほど寒くなった。
「ムダ」と切り捨てられた時間は、その中にあたたかさを持つ時間ではなかっただろうか。
灰色の男たちは人間的なあたたかさが嫌いだ。
つまり、灰色の男たちの支配下に入らないためには、あたたかな触れあいやつながりを持っていること、それを大切に思うことだ。
-------------------
エンデの言葉
「灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものだけしか現実性をもたない。計量思考を代弁しているのです。」
「人間から時間が疎外されていくのは、いのちが疎外されていくことであり、そう仕向けていく恐ろしい力が世界にある。しかし一方に、別の力が働いており、これが人間に治癒の作用を送ってくる。と、そこまで『モモ』で暗示したつもりです。」
-------------------
あたたかな内的時間。その時間で体験したことこそ、地上の人生を終えるときに、向こう側に持って行けるものだ。それはその人のほんとうの時間なのだから。
Zeit ist Leben(時間は、いのち)
物語の中で、最初に灰色の男たちに捕えられたのが床屋のフージー氏だ。
ある雨の日、フージー氏は不意に自分の人生に疑いを持ち始める。
仕事はそれなりに楽しく、お客とのおしゃべりも嫌いではなかったのに。
「おれはなにものになれた?たかがけちな床屋じゃないか。もしもちゃんとしたくらしができてたら、いまとはぜんぜんちがう人間になってたろうになあ!・・・そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。」
そのとき店の前に車がとまり、灰色ずくめの紳士が降りてくる。
紳士はフージー氏がいましがた考えていたことを言い当て、時間の倹約をすすめて奇妙な計算を始める。
仕事や毎日の必要なことに使っている時間をすべてムダといい、年とった母親の相手をすることやインコの世話、合唱団の練習、友だちと会ったり本を読むことも、役に立たないことへの時間の浪費と言い放つ。
そしてフージー氏が秘密にしていたこと.....毎日花を持って車いすのダリア嬢を訪ねていたこと、さらに、寝る前に窓辺にすわってその日のことを思い出す習慣も、ムダ。
人生の時間から、これまでムダにしてきた時間を引くと、残り時間は...ゼロ!この計算こそ、灰色の男たちが何万もの人間をだますのに使ってきた手口だという。
時間のムダ、時間の節約....これは『モモ』が書かれてから半世紀以上も経った今も、ますます盛んに叫ばれている。時短、効率、生産性....
灰色の男がやって来たとき、フージー氏は寒気を感じる。怪しげな計算が進むと、くちびるが紫になるほど寒くなった。
「ムダ」と切り捨てられた時間は、その中にあたたかさを持つ時間ではなかっただろうか。
灰色の男たちは人間的なあたたかさが嫌いだ。
つまり、灰色の男たちの支配下に入らないためには、あたたかな触れあいやつながりを持っていること、それを大切に思うことだ。
-------------------
エンデの言葉
「灰色の男たちは、こまぎれ、分解の原理です。彼らにとっては、計算、計量、測定できるものだけしか現実性をもたない。計量思考を代弁しているのです。」
「人間から時間が疎外されていくのは、いのちが疎外されていくことであり、そう仕向けていく恐ろしい力が世界にある。しかし一方に、別の力が働いており、これが人間に治癒の作用を送ってくる。と、そこまで『モモ』で暗示したつもりです。」
-------------------
あたたかな内的時間。その時間で体験したことこそ、地上の人生を終えるときに、向こう側に持って行けるものだ。それはその人のほんとうの時間なのだから。
Zeit ist Leben(時間は、いのち)
posted by Sachiko at 22:35
| Comment(0)
| ファンタジー
2025年02月09日
ギムリの願い方
とても久しぶりに『指輪物語』から。
ガンダルフを失った旅の一行は、ロリエンの都に入った。
数日滞在したのち、出発の日にガラドリエルの奥方は、ひとりひとりにふさわしい贈り物を与える。
アラゴルンには緑色のエルフの宝石、ボロミアには金のベルト、メリーとピピンには小さな銀のベルト、レゴラスにはこの地のエルフの弓矢、サムにはガラドリエルの庭の土が入った小箱。
「してドワーフはどのような贈り物をエルフに所望されるだろうか?」
ギムリは何も所望せず、ガラドリエルに会えて言葉を頂けただけで十分と答えるが、ガラドリエルは、欲しいものがあるならそれを言うように命じる。
「・・・こんなお願いをすることを、いえ、お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら、奥方様のお髪を一筋いただけましたらと、存じます。
―――わたくしはこのような贈り物をいただきたいとは申しませぬ。ただわたくしの望みを口にするようにお命じになりましたので。」
エルフたちが驚く中、奥方は髪の毛を三本切り取ってギムリの手に置いた。
そして最後にフロドに光を集めた水晶の瓶を渡すと椅子を立ち、一行は船着場から小船に乗り込んだ。
旅の一行それぞれに贈り物が用意されていた中、なぜかギムリだけが望むものを言うように命じられる。
ギムリの答えは、望むのではなく、ただその望みを口にするだけ。
「お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら....」
そして、それは叶えられた。
人間、エルフ、ドワーフ、ホビット...
それぞれの種族から集められた旅の仲間の中で、私はドワーフのギムリにあまり関心を持っていなかったけれど、この願いの場面はなぜか印象に残っている。
ガラドリエルには、それぞれが必要とするもの、ふさわしいもの、役立つものが見えていた。が、ギムリの願いはそのようなものではなかった。
「・・・地上の金をことごとく集めても奥方様の髪の毛一筋には及びませぬ。」
一筋の髪は、ガラドリエルに対する、言葉にもかたちにも表しきれない最高の敬意と賛美の象徴なのであり、故にこの贈り物は、あらかじめ用意しておくことのできないものだったのだ。
ロリエンの地が見えなくなった後、ギムリは言った。
「わたしはいちばん美しいものの見おさめをしてきた。
これから後、わたしはいかなるものも美しいとは言うまい。奥方からいただいたこの贈り物をのぞいては。」
フォークロアの中のエルフやドワーフは、妖精や鉱山の小人として描かれるが、この『指輪物語』においてはどの種族も超自然的な存在ではなく、ある意味みんな「人間」である。
そしてファンタジーの語り口は、高貴なエルフも邪悪なオークも他のすべての存在も、壮大なタペストリーの中の欠かせない図柄の一部として物語を彩らせる。
ガンダルフを失った旅の一行は、ロリエンの都に入った。
数日滞在したのち、出発の日にガラドリエルの奥方は、ひとりひとりにふさわしい贈り物を与える。
アラゴルンには緑色のエルフの宝石、ボロミアには金のベルト、メリーとピピンには小さな銀のベルト、レゴラスにはこの地のエルフの弓矢、サムにはガラドリエルの庭の土が入った小箱。
「してドワーフはどのような贈り物をエルフに所望されるだろうか?」
ギムリは何も所望せず、ガラドリエルに会えて言葉を頂けただけで十分と答えるが、ガラドリエルは、欲しいものがあるならそれを言うように命じる。
「・・・こんなお願いをすることを、いえ、お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら、奥方様のお髪を一筋いただけましたらと、存じます。
―――わたくしはこのような贈り物をいただきたいとは申しませぬ。ただわたくしの望みを口にするようにお命じになりましたので。」
エルフたちが驚く中、奥方は髪の毛を三本切り取ってギムリの手に置いた。
そして最後にフロドに光を集めた水晶の瓶を渡すと椅子を立ち、一行は船着場から小船に乗り込んだ。
旅の一行それぞれに贈り物が用意されていた中、なぜかギムリだけが望むものを言うように命じられる。
ギムリの答えは、望むのではなく、ただその望みを口にするだけ。
「お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら....」
そして、それは叶えられた。
人間、エルフ、ドワーフ、ホビット...
それぞれの種族から集められた旅の仲間の中で、私はドワーフのギムリにあまり関心を持っていなかったけれど、この願いの場面はなぜか印象に残っている。
ガラドリエルには、それぞれが必要とするもの、ふさわしいもの、役立つものが見えていた。が、ギムリの願いはそのようなものではなかった。
「・・・地上の金をことごとく集めても奥方様の髪の毛一筋には及びませぬ。」
一筋の髪は、ガラドリエルに対する、言葉にもかたちにも表しきれない最高の敬意と賛美の象徴なのであり、故にこの贈り物は、あらかじめ用意しておくことのできないものだったのだ。
ロリエンの地が見えなくなった後、ギムリは言った。
「わたしはいちばん美しいものの見おさめをしてきた。
これから後、わたしはいかなるものも美しいとは言うまい。奥方からいただいたこの贈り物をのぞいては。」
フォークロアの中のエルフやドワーフは、妖精や鉱山の小人として描かれるが、この『指輪物語』においてはどの種族も超自然的な存在ではなく、ある意味みんな「人間」である。
そしてファンタジーの語り口は、高貴なエルフも邪悪なオークも他のすべての存在も、壮大なタペストリーの中の欠かせない図柄の一部として物語を彩らせる。
posted by Sachiko at 22:11
| Comment(2)
| ファンタジー
2024年05月17日
バスチアンの最後の望み
先日書いたヘッセの『アウグスツス』の物語で、与えられるばかりの愛に絶望したアウグスツスは最後に「ぼくが人々を愛することができるようにしてください!」と願った。
この願いは、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』の、バスチアンの最後の望みを思い出す。
不思議なアイゥオーラおばさまの「変わる家」で、バスチアンの中に、愛することができるようになりたい、という憧れが目覚めた。
生命の水を飲んだら、それができるようになるという。
バスチアンは、生命の水が湧きでる泉を探して旅に出る....
以前ある人が言った、教育の目的はものを覚えることでも何かできるようになることでもなく、愛することと感謝することだ、という言葉が印象に残っている。
もちろん知識や技能を得ることは必要だけれど、知識や技術の分野はすでにテクノロジーが席捲している。
では人間として生きることの目的は何か...教育の目的ということは、それは人生の目的そのものでもあるのだろう。
バスチアンやアウグスツスのように、紆余曲折を経て人はそこにたどり着くか、あるいはたどり着かないこともあるだろう。
愛することができるようになりたい、という最後の願いは、願った瞬間、すでに実現が約束されているような気がする。
ずっと昔、人は生きていればいろいろ困難なことがあり、時には耐え難く感じ、中には命を絶ってしまう人もいるけれど、ほとんどの人はそれでも生き続けるのはなぜだろう、と思ったことがある。
そして、もしかしたら生命そのものが喜びなのではないか、と思った。
最後の望みを見出す前に、バスチアンはファンタージエンで多くの望みを叶え、それ故の間違いも犯す。
エンデはこの物語に関して何度も“失敗の神秘”ということを言っている。
「失敗に次ぐ失敗、そのおかげでバスチアンは最後に正しい道を見つけました」
そして、万事休した時に転換が起きる、とも言っている。
バスチアンはファンタージエンにおいて、まさに万事休していた。
思えば人類史は、失敗に次ぐ失敗を繰り返し、今また、まさに万事休している。
ここで転換が起きるのか、最後に正しい道を見つけることができるのか...
競争して勝つことでもなく、奪いあってより多くを得ることでもなく、「愛することができるようになりたい」という願いに突き動かされ満たされたなら、思いもよらない転換が起き得るかもしれない。
「僕は、人類がこの地球上で為すべき役割をすべて果たし終えたとは、到底思えないんだ」(ミヒャエル・エンデ)
私もそう思う。
この願いは、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』の、バスチアンの最後の望みを思い出す。
不思議なアイゥオーラおばさまの「変わる家」で、バスチアンの中に、愛することができるようになりたい、という憧れが目覚めた。
生命の水を飲んだら、それができるようになるという。
バスチアンは、生命の水が湧きでる泉を探して旅に出る....
以前ある人が言った、教育の目的はものを覚えることでも何かできるようになることでもなく、愛することと感謝することだ、という言葉が印象に残っている。
もちろん知識や技能を得ることは必要だけれど、知識や技術の分野はすでにテクノロジーが席捲している。
では人間として生きることの目的は何か...教育の目的ということは、それは人生の目的そのものでもあるのだろう。
バスチアンやアウグスツスのように、紆余曲折を経て人はそこにたどり着くか、あるいはたどり着かないこともあるだろう。
愛することができるようになりたい、という最後の願いは、願った瞬間、すでに実現が約束されているような気がする。
ずっと昔、人は生きていればいろいろ困難なことがあり、時には耐え難く感じ、中には命を絶ってしまう人もいるけれど、ほとんどの人はそれでも生き続けるのはなぜだろう、と思ったことがある。
そして、もしかしたら生命そのものが喜びなのではないか、と思った。
最後の望みを見出す前に、バスチアンはファンタージエンで多くの望みを叶え、それ故の間違いも犯す。
エンデはこの物語に関して何度も“失敗の神秘”ということを言っている。
「失敗に次ぐ失敗、そのおかげでバスチアンは最後に正しい道を見つけました」
そして、万事休した時に転換が起きる、とも言っている。
バスチアンはファンタージエンにおいて、まさに万事休していた。
思えば人類史は、失敗に次ぐ失敗を繰り返し、今また、まさに万事休している。
ここで転換が起きるのか、最後に正しい道を見つけることができるのか...
競争して勝つことでもなく、奪いあってより多くを得ることでもなく、「愛することができるようになりたい」という願いに突き動かされ満たされたなら、思いもよらない転換が起き得るかもしれない。
「僕は、人類がこの地球上で為すべき役割をすべて果たし終えたとは、到底思えないんだ」(ミヒャエル・エンデ)
私もそう思う。
posted by Sachiko at 22:25
| Comment(2)
| ファンタジー
2023年11月04日
マイスター・ホラ
ミヒャエル・エンデ『モモ』より。
時間の国にたどり着いたモモが出会ったのは、不思議な人物マイスター・ホラだった。マイスター・ホラは星の時間について語る。
「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こり得ないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。」
時間は、いのち。
それなら時間の国は、つまりはいのちの国で、マイスター・ホラは人間に“時間”という姿でいのちを配っている。
「もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったらどうなるの?」
「そのときは、おまえじしんの時間もおしまいになる。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。
人生を逆にもどっていって、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出て行くのだ。」
このあたりはシュタイナーの思想が色濃く反映されて見える。
人は星々のあいだを通り、太陽を通り月を通って生まれてくる。ある時間、ある特定の場所で生まれる人間はひとりしかいない。たとえ双子でも、時間が少しずれている。
生まれてくることはそれほど特別なことで、まさにひとりひとりが、一回きりの星の時間だ。
そして人は生まれたときの星空をエーテル体に写しとっているという。
誕生日に星空を見上げることができ、自分がどれほど特別な宇宙的存在なのかを思い出すことができたら、その度に新しいいのちを与えられるような気分になれるのではないかと思う。
モモはたずねる。
「あなたは死なの?」
「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」
この会話のあと、モモはマイスター・ホラの腕に抱かれて、あの咲いては散る“時間の花”を見る。
どの人間にも、モモが見たような場所がある。でもそこへ行けるのはわたしに抱いてもらえる人だけだ、とマイスター・ホラは言う。
つまり、死の腕に抱かれるときに、ということだろうか。
そのとき、時間=いのちの源で、あの荘厳な時間の花と宇宙の音楽に満たされることができるなら、死は恐ろしくはないだろう。
これが子供の本だって?
そうなのだ。子供は銀の門をくぐってやって来てからそう長い時間が経っていない。星の音楽の響きが、まだかすかに残っているかもしれない。
このような物語から、その響きのひとかけらを大人も思い出す。
ミヒャエル・エンデは『モモ』の挿絵をモーリス・センダックに描いてもらいたがっていたそうだ。でも諸事情で叶わず、結局エンデ本人が描くことになった。
センダックの挿絵はきっとすばらしかっただろうが、今となってはエンデのペン画以外には考えられないくらい物語とひとつになっている。
時間の国にたどり着いたモモが出会ったのは、不思議な人物マイスター・ホラだった。マイスター・ホラは星の時間について語る。
「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こり得ないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。」
時間は、いのち。
それなら時間の国は、つまりはいのちの国で、マイスター・ホラは人間に“時間”という姿でいのちを配っている。
「もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったらどうなるの?」
「そのときは、おまえじしんの時間もおしまいになる。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。
人生を逆にもどっていって、ずっとまえにくぐった人生への銀の門にさいごにはたどりつく。そしてその門をこんどはまた出て行くのだ。」
このあたりはシュタイナーの思想が色濃く反映されて見える。
人は星々のあいだを通り、太陽を通り月を通って生まれてくる。ある時間、ある特定の場所で生まれる人間はひとりしかいない。たとえ双子でも、時間が少しずれている。
生まれてくることはそれほど特別なことで、まさにひとりひとりが、一回きりの星の時間だ。
そして人は生まれたときの星空をエーテル体に写しとっているという。
誕生日に星空を見上げることができ、自分がどれほど特別な宇宙的存在なのかを思い出すことができたら、その度に新しいいのちを与えられるような気分になれるのではないかと思う。
モモはたずねる。
「あなたは死なの?」
「もし人間が死とはなにかを知っていたら、こわいとは思わなくなるだろうにね。
そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」
この会話のあと、モモはマイスター・ホラの腕に抱かれて、あの咲いては散る“時間の花”を見る。
どの人間にも、モモが見たような場所がある。でもそこへ行けるのはわたしに抱いてもらえる人だけだ、とマイスター・ホラは言う。
つまり、死の腕に抱かれるときに、ということだろうか。
そのとき、時間=いのちの源で、あの荘厳な時間の花と宇宙の音楽に満たされることができるなら、死は恐ろしくはないだろう。
これが子供の本だって?
そうなのだ。子供は銀の門をくぐってやって来てからそう長い時間が経っていない。星の音楽の響きが、まだかすかに残っているかもしれない。
このような物語から、その響きのひとかけらを大人も思い出す。
ミヒャエル・エンデは『モモ』の挿絵をモーリス・センダックに描いてもらいたがっていたそうだ。でも諸事情で叶わず、結局エンデ本人が描くことになった。
センダックの挿絵はきっとすばらしかっただろうが、今となってはエンデのペン画以外には考えられないくらい物語とひとつになっている。
posted by Sachiko at 22:24
| Comment(2)
| ファンタジー