柳田邦男の『遠野物語』にも収録されている『オシラサマ』の話を最初に知ったのは中学生の時で、何かの雑誌に、木で作られた単純な形の馬の首に色とりどりの布を着物のように着せた像が祀られている写真が載っていた。
伝説では、ある農家の娘が馬と恋仲になったことを知って怒った父親が、馬を桑の木に吊るして殺し、その首をはねてしまう。
娘は馬の首にすがりついて嘆き悲しみ、やがて娘と馬の首はいっしょに昇天する。
ある晩父親の夢に娘が現われ、桑の木で自分たちの像を彫って祀ってくれるようにと告げた...という話だった。
人間と動物の異類婚姻譚は世界中にある。
メルヒェンではよく口をきく動物が出てくるが、その正体は動物そのものではなく魔法にかけられた王子である場合が多い。(擬人化された動物物語はまた別の話)
『かえるの王さま』の蛙、『雪白とばら紅』の黒熊、『ロバの王子』では王子は最初からロバの姿で生まれてくるが、お姫様と結婚して人間の姿に戻る。
日本では「鶴女房」など、動物が人間の姿をとることが多い。
狐や狸が人間に化ける話も多々ある。
人間界と動物界は、魂を共有している。
かつて、まだ自然の力が圧倒的に強かった時代、人間界と他の世界は今よりはるかに近く、互いに交差し合っていたのだ。
オシラサマの馬は、魔法にかけられたのでもなく人間に化けるわけでもない、最初から馬だ。
東北に行った時、文化財として保存されている〈南部曲がり家〉を見たことがある。L字型の造りになった家の、片側が人の住む主屋で、もう一方は厩になっている。
人と馬は家族のように、一つ屋根の下に住んでいてとても近い存在として暮らしていたのだろう。
2025年05月09日
オシラサマ
posted by Sachiko at 16:50
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2024年02月02日
神話の動物
「どこの土地でも、神話の動物は地球上の先輩たち、しばしば人間の先祖とみなされる」
動物は人間よりも早く地上に降りた。
先祖とみなされるのはある意味間違いではない(猿が先祖だという例の説はそれとは別の意味だが)。
動物や植物が先にやってこなければ、人間は地上で生きて行くことはできなかった。
以前にも書いたけれど、アイヌ民族にとって熊はキムンカムイ(山の神)であり、他の動物も植物も、山も川も自然界のすべてはカムイだった。
人を襲うようになった熊はウェンカムイ(悪い神)と呼ばれる。
近年ウェンカムイが多くなったのは、緩衝地帯の里山が減ったというだけでなく、人間が野生動物と魂レベルで繋がることができなくなってしまったからではないかと思う。
メルヒェンにもよく熊が登場し、ドイツのベルリン(Berlin)やスイスのベルン(Bern)の“Ber”は、熊に由来するという。
中央ヨーロッパの野生のヒグマは絶滅危惧種になっているが、北欧や東欧にはまだいるらしい。
フィンランドの神話の中には、自分たちの祖先は熊と少女の結婚によって生まれた、という物語がある。
熊は森の支配者であり、森そのものだったという。
アイヌ民族のイオマンテのように、フィンランドでも熊猟のあとには熊の魂を天界に帰す特別な儀式があるそうだが、似たものは世界各地にあったことだろう。
生きとし生けるものすべての中にカムイ(霊格)がある。
それは古くて稚拙な考えなどではない。
むしろカムイが見えなくなった現代人は、進歩したという錯覚の中、どれほど野蛮人になってしまっていることか。

動物は人間よりも早く地上に降りた。
先祖とみなされるのはある意味間違いではない(猿が先祖だという例の説はそれとは別の意味だが)。
動物や植物が先にやってこなければ、人間は地上で生きて行くことはできなかった。
以前にも書いたけれど、アイヌ民族にとって熊はキムンカムイ(山の神)であり、他の動物も植物も、山も川も自然界のすべてはカムイだった。
人を襲うようになった熊はウェンカムイ(悪い神)と呼ばれる。
近年ウェンカムイが多くなったのは、緩衝地帯の里山が減ったというだけでなく、人間が野生動物と魂レベルで繋がることができなくなってしまったからではないかと思う。
メルヒェンにもよく熊が登場し、ドイツのベルリン(Berlin)やスイスのベルン(Bern)の“Ber”は、熊に由来するという。
中央ヨーロッパの野生のヒグマは絶滅危惧種になっているが、北欧や東欧にはまだいるらしい。
フィンランドの神話の中には、自分たちの祖先は熊と少女の結婚によって生まれた、という物語がある。
熊は森の支配者であり、森そのものだったという。
アイヌ民族のイオマンテのように、フィンランドでも熊猟のあとには熊の魂を天界に帰す特別な儀式があるそうだが、似たものは世界各地にあったことだろう。
生きとし生けるものすべての中にカムイ(霊格)がある。
それは古くて稚拙な考えなどではない。
むしろカムイが見えなくなった現代人は、進歩したという錯覚の中、どれほど野蛮人になってしまっていることか。
posted by Sachiko at 15:25
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2024年01月23日
魂の叡智・動物譚
前回のオオカミのまつ毛の話がとても印象に残っていたのだが、別のところで狼についての別の話を目にした。
「アメリカ先住民は、狼には雲の通り過ぎる音が聞こえると信じている」(「《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男」ジェイ・グリフィス著より)
神話や古い伝承の中では、人間と動物は互いにとても近いところにいた。
神々はそれぞれ特別な動物を従え、しばしば動物に姿を変えることもできる。
昔話ではしばしば、「昔々、まだ動物が言葉を話していたころ....」というふうに物語が始まる。
人間は動物と魂界を共有している。
オオカミのまつ毛はおそらく、魂を通して、目に見える表面よりも一段深いところ...魂の状態を透視する小道具だ。
「聞き耳頭巾」という昔話では、その頭巾を被ると動物や鳥の言葉がわかるようになり、類話は世界中にある。
シュタイナーが「現代人の魂は冷え切っている」と言った時代から100年経った今は、頭偏重になりすぎて、冷え切ったどころか魂が消えかけているそうだ。
そして頭の知識は、温かい魂を通さなければ叡智に上昇して行かない。
それで、かつてお年寄りの智恵と言われていたものも、今では多くが失われてしまったのだ。
オオカミのまつ毛を通して現代人を見たら、大きな頭に手足が付いているような奇妙な姿に見えるかもしれない。
「動物たちはしばしば、太古の知恵を持ち、人間には感じられないものを感じる」(ジェイ・グリフィスの前著より)
動物と人間の古いつながりについてはまだ興味深い話がたくさんあるので、この話はもう少し続く。
「アメリカ先住民は、狼には雲の通り過ぎる音が聞こえると信じている」(「《まるい時間》を生きる女、《まっすぐな時間》を生きる男」ジェイ・グリフィス著より)
神話や古い伝承の中では、人間と動物は互いにとても近いところにいた。
神々はそれぞれ特別な動物を従え、しばしば動物に姿を変えることもできる。
昔話ではしばしば、「昔々、まだ動物が言葉を話していたころ....」というふうに物語が始まる。
人間は動物と魂界を共有している。
オオカミのまつ毛はおそらく、魂を通して、目に見える表面よりも一段深いところ...魂の状態を透視する小道具だ。
「聞き耳頭巾」という昔話では、その頭巾を被ると動物や鳥の言葉がわかるようになり、類話は世界中にある。
シュタイナーが「現代人の魂は冷え切っている」と言った時代から100年経った今は、頭偏重になりすぎて、冷え切ったどころか魂が消えかけているそうだ。
そして頭の知識は、温かい魂を通さなければ叡智に上昇して行かない。
それで、かつてお年寄りの智恵と言われていたものも、今では多くが失われてしまったのだ。
オオカミのまつ毛を通して現代人を見たら、大きな頭に手足が付いているような奇妙な姿に見えるかもしれない。
「動物たちはしばしば、太古の知恵を持ち、人間には感じられないものを感じる」(ジェイ・グリフィスの前著より)
動物と人間の古いつながりについてはまだ興味深い話がたくさんあるので、この話はもう少し続く。
posted by Sachiko at 23:06
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2024年01月12日
民話の語り部
先日Eテレで再放送していた語り部の話を録画しておいたのを観た。
東北の民話、それもあまり一般には知られていない話を、80代90代の語り部が語っていた。今はもうこの世を去った人もいる。
数少ない語り部たちは高齢化し、もうほとんど残っていない。
字幕がなければ聞き取れない(字幕があってもよくわからない)、生粋の方言は、土地の魂のように響く。
娯楽の少なかった時代、炉端で語られた民話は子どもたちの楽しみだったことだろう。身近な家族や近所の人が、子や孫や近所の子供たちのために肉声で語る物語。
ずっと昔、文字を知る庶民が少なかった時代には、ただ語りだけで伝えられた。「読んであげる」と「語る」は、全く違うはたらきを持つそうだ。
最近はプロが朗読したCDなども出ているけれど、これは語り部とは違うものだ。
自分が直接知っている人が、直接知っている人々に向けて物語を語る。こういうことは、今ではほとんどなくなった。
物語だけでなく、人と人がほんとうに語りあうということさえ少なくなっている。
語り部が語る古い民話は、現代の孤立したエンタメとは違って単に娯楽のためでなく、暮らしの中に息づく代々の、いのちと知恵の受け渡しのようなものだった気がする。
番組の終わりのほうで、「オオカミのまつ毛」という、不思議に印象深い民話があったので、あらすじを紹介しておく。
・・・・
昔々、お爺さんとお婆さんがいました。
お爺さんは正直者で、毎日一生懸命働きましたが、お婆さんはちっともいい顔をしません。
それでお爺さんは山奥へ行き、オオカミに自分を食べてくれるように願いました。オオカミは「おまえは正直者だから食べることはできない、自分のまつ毛を一本やるから、それをお婆さんにかざしてみるがいい」と言いました。
家に帰ってお婆さんにまつ毛をかざしてみると、お婆さんだと思っていたのは、何と古メンドリだったのです。
村人たちにもまつ毛をかざしてみると、みんな人間の体をしているけれど首から上は蛇だったりムジナだったりゲジゲジだったりしました。それが人間のような顔をして歩いているのでした。
お爺さんは里で暮らすのが嫌になり、山奥に入ってひとりで暮らしました。
・・・・
東北の民話、それもあまり一般には知られていない話を、80代90代の語り部が語っていた。今はもうこの世を去った人もいる。
数少ない語り部たちは高齢化し、もうほとんど残っていない。
字幕がなければ聞き取れない(字幕があってもよくわからない)、生粋の方言は、土地の魂のように響く。
娯楽の少なかった時代、炉端で語られた民話は子どもたちの楽しみだったことだろう。身近な家族や近所の人が、子や孫や近所の子供たちのために肉声で語る物語。
ずっと昔、文字を知る庶民が少なかった時代には、ただ語りだけで伝えられた。「読んであげる」と「語る」は、全く違うはたらきを持つそうだ。
最近はプロが朗読したCDなども出ているけれど、これは語り部とは違うものだ。
自分が直接知っている人が、直接知っている人々に向けて物語を語る。こういうことは、今ではほとんどなくなった。
物語だけでなく、人と人がほんとうに語りあうということさえ少なくなっている。
語り部が語る古い民話は、現代の孤立したエンタメとは違って単に娯楽のためでなく、暮らしの中に息づく代々の、いのちと知恵の受け渡しのようなものだった気がする。
番組の終わりのほうで、「オオカミのまつ毛」という、不思議に印象深い民話があったので、あらすじを紹介しておく。
・・・・
昔々、お爺さんとお婆さんがいました。
お爺さんは正直者で、毎日一生懸命働きましたが、お婆さんはちっともいい顔をしません。
それでお爺さんは山奥へ行き、オオカミに自分を食べてくれるように願いました。オオカミは「おまえは正直者だから食べることはできない、自分のまつ毛を一本やるから、それをお婆さんにかざしてみるがいい」と言いました。
家に帰ってお婆さんにまつ毛をかざしてみると、お婆さんだと思っていたのは、何と古メンドリだったのです。
村人たちにもまつ毛をかざしてみると、みんな人間の体をしているけれど首から上は蛇だったりムジナだったりゲジゲジだったりしました。それが人間のような顔をして歩いているのでした。
お爺さんは里で暮らすのが嫌になり、山奥に入ってひとりで暮らしました。
・・・・
posted by Sachiko at 21:50
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2020年11月11日
聖マルティン伝説
11月11日は聖マルティン祭。
ドイツではこの日の夜、子どもたちがランタンを持って歌いながら歩くという話は以前書いたが、では聖マルティンとはどんな人物なのか....
ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、ほんの少し触れられている箇所がある。
メルヒェン「星の銀貨」の少女のように、持っているすべてを他者に差しだしてしまうことは、地上における現実の生活にふさわしいこととは言えない....
現実世界では、豊かな人が貧しい人に持っているすべてを与えてしまったとしたら、単に立場が入れ替わるだけなのだ。
このような場合の、現実に適った対処のしかたを描いたものとして、聖マルティンの伝説が紹介されている。
-------------------------
その伝説では、聖マルティンという英雄が馬に乗って進んで行く途中で、ある乞食に出会います。その乞食は、寒さで凍えそうです。
そこで聖マルティンは、自分の着ていたマントを半分に裂き、その片方を乞食に与えるのです。
もし、一方の人間がより多くを持っており、他方の人間が貧しい状態にあるなら、ふたりはお互いに分かちあうことが必要になります。それが地上の現実なのです。
-------------------------
この本に書かれている聖マルティン伝説についての話はこれだけなのだが、別のところでこの続きを見つけた。
次の夜、マルティンの夢の中にキリストが現われ、半分のマントを着ていた、というものだ。
どこかで聞いたような話.....
以前紹介した絵本「靴屋のマルティン」に似ている。
靴屋のマルティンがその日、親切にして必要なものを与えた人々――凍えていた道路掃除夫や、赤ん坊を抱えた貧しい婦人、リンゴを盗んだ少年を罰するおばあさん。
夜、幻のように現れたその人たちを見て、マルティンはそれがイエスさまだったと知った.....
あの「靴屋のマルティン」は、聖マルティン伝説が土台になっていたのだ。
ドイツではハロウィンがあまり盛んではない代わりに、秋のお祭りといえばこの聖マルティン祭だ。
日が短くなった11月に灯るランタンは、魂の奥に暖かく懐かしい思いを呼び起こすことだろう。
ドイツではこの日の夜、子どもたちがランタンを持って歌いながら歩くという話は以前書いたが、では聖マルティンとはどんな人物なのか....
ヨハネス・シュナイダーの「メルヘンの世界観」の中で、ほんの少し触れられている箇所がある。
メルヒェン「星の銀貨」の少女のように、持っているすべてを他者に差しだしてしまうことは、地上における現実の生活にふさわしいこととは言えない....
現実世界では、豊かな人が貧しい人に持っているすべてを与えてしまったとしたら、単に立場が入れ替わるだけなのだ。
このような場合の、現実に適った対処のしかたを描いたものとして、聖マルティンの伝説が紹介されている。
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その伝説では、聖マルティンという英雄が馬に乗って進んで行く途中で、ある乞食に出会います。その乞食は、寒さで凍えそうです。
そこで聖マルティンは、自分の着ていたマントを半分に裂き、その片方を乞食に与えるのです。
もし、一方の人間がより多くを持っており、他方の人間が貧しい状態にあるなら、ふたりはお互いに分かちあうことが必要になります。それが地上の現実なのです。
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この本に書かれている聖マルティン伝説についての話はこれだけなのだが、別のところでこの続きを見つけた。
次の夜、マルティンの夢の中にキリストが現われ、半分のマントを着ていた、というものだ。
どこかで聞いたような話.....
以前紹介した絵本「靴屋のマルティン」に似ている。
靴屋のマルティンがその日、親切にして必要なものを与えた人々――凍えていた道路掃除夫や、赤ん坊を抱えた貧しい婦人、リンゴを盗んだ少年を罰するおばあさん。
夜、幻のように現れたその人たちを見て、マルティンはそれがイエスさまだったと知った.....
あの「靴屋のマルティン」は、聖マルティン伝説が土台になっていたのだ。
ドイツではハロウィンがあまり盛んではない代わりに、秋のお祭りといえばこの聖マルティン祭だ。
日が短くなった11月に灯るランタンは、魂の奥に暖かく懐かしい思いを呼び起こすことだろう。
posted by Sachiko at 22:07
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