2022年03月23日

「町かどのジム」

「町かどのジム」(エリノア・ファージョン)

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1934年に書かれた、古い時代のモノクロ映画を思わせるようなお話。

町角のポストの横に置かれたミカン箱に、年老いたジムはいつもすわっていた。
8歳のデリー少年は、ジムはそこでずっと通りの番をしているのだと思っていた。だからいつも安心だ。

ジムが身に着けているものは、みんな近所の誰かからもらったものだった。通りに住む人はみんなでジムの世話をしていた。

ジムは今年の8月10日で80歳になる。
デリーが「誕生日には何がほしい?」ときくと、ジムは「海を見ることだよ」と答えた。


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この通りにすむだれがとおっても、ジムは、うれしそうに顔をほころばせて、「ちょうだいした長ぐつですよ、だんな。」とか、「ちょうだいしたくつしたでさあ。」とか、「ちょうだいしたえりまきですよ、おじょうさん。」とか、いうのでした。

そんなわけで、ジムは、この通りにはなくてはならぬ人でした。ここにすむみんながそう思っていました。
だれでも、このかどをまがるときは、まるで、じぶんの一部が、ジムといっしょに、ミカンばこの上にすわっているような気がするのでした。

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本の中でジムについて書かれているのは最初と最後の章だけで、あとは、ジムがデリーに話して聞かせるたくさんの面白いお話でできている。
それはジムが子供の頃や、船乗りだった頃のお話だった。

畑に落としたベーコンサンドイッチから、ベーコンサンドイッチの木が生えてきたり、人の欲しがるものは何でもある「ありあまり島」の王さまになった話、南極のペンギンと仲よくなったり、インド洋では虹色の大ウミヘビに遭遇したりと、突拍子もない話ばかりなのだが。


ジムの誕生日、ジムは町角にひとりぼっちで座っていた。
仲よしの子どもたちはみんな、海や山や田舎に行ってしまっていた。
過ぎ去った日のことを考えているうちに居眠りを始めたジムは、いろいろな夢を見た。

夢の中にデリーが現われて叫んだ。
「おたんじょう日おめでとう、ジム!」
目を覚ますと、目の前に海岸へ行っていたはずのデリーがいた。
パパの車で、誕生日のお祝いを言いに来たのだ。

そして、いっしょに車で海岸へ行って二週間滞在する手配をしてあるという。
ジムが誕生日には何よりも海のにおいをかぎたいと言っていたからだ。
車はジムを乗せて走りだした....



老人が物語を語り、子供が目を輝かせて聞き入る。
今はもうほとんど見ることのなくなった光景だ。

ジムは、食べるものや寝るところはどうしているのだろう。
それもきっと近隣の人々がめんどうをみて、誰かがどこかに小さな部屋でも提供しているのだろうか。

舞台は田舎町ではなく大都会ロンドンなのだが、物語に流れる空気は、体温や息づかいのように温かい。
これもファージョンの本ではおなじみの、エドワード・アーディゾーニが挿絵を描いている。
  
posted by Sachiko at 22:26 | Comment(0) | 児童文学
2022年02月14日

「赤い鳥の国へ」

「赤い鳥の国へ」(アストリッド・リンドグレーン)

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まだ人々が貧しかった昔、みなし子になったマティアスとアンナ兄妹は、それまでいたミナミノハラを去り、ミーラ村のお百姓の家に働き手として引き取られた。

子どもたちは働きづめで、食べものは塩漬けニシンの汁につけたジャガイモだけ。冬まで生きていれば、学校に行かせてもらえる、それだけを励みにしていた。

森の道を凍えながら通った学校は、思ったほど楽しいところではなかった。
おべんとうの時間、冷たいジャガイモを持って来ただけのふたりをからかう子がいる。そして、乳しぼりの時間までには帰らなければならない。

ある日の帰り道、ふたりは赤い鳥を追って森の奥へ入り込む。
塀の向こうには、少しだけ開いている扉があった。

扉の中は春だった。天国のような草原で、子どもたちが遊んでいる。
子どもたちは、ここは別のミナミノハラだと言った。

楽しく遊んでいると、子どもたちみんなのお母さんが「ごはんよ!」と呼んだ。
その人はまさに二人のお母さんそのものだった。
おいしいごはんの後、ながいあいだ寄り道をしたことに気がついて帰ることにしたふたりを、みんなは半開きの扉のところまで送ってくれた。

それは一度閉まったら、二度と絶対に開かない扉だった。
ふたりはそれからも毎日、赤い鳥に導かれてミナミノハラへ行った。

冬が終わると、学校へは行けなくなり、また一日中働かなくてはならない。学校の最後の日は、ミナミノハラへ行けるのも最後だ。

その日は、冬のいちばん寒い日だった。
ふたりはミナミノハラにたどり着く前に死んでしまうかと思ったが、ついに半分開いた扉までやってきた。

そこはいつもの春のミナミノハラで、お母さんが「ごはんよ!」と呼んでいた。
扉の向こうには、冷たく凍りつく森があった。
ふたりは互いをみつめあい、一度閉めたら二度と開かないという扉を、そっと閉めた....

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いつの時代なのか、北欧がまだ貧しかった頃の物語。
過酷な環境で働く子どもといえば、大昔に観たスウェーデンの映画「ペレ」を思い出す。(これは私の「二度と観たくない三つの悲惨な映画」のひとつだ。(>_<))

マティアスとアンナ兄妹は、赤い鳥に導かれてもうひとつのミナミノハラへ行くことができなければ、あまりに希望のない灰色の暮らしだった。

いつも半開きになっている扉は、一度閉めたら二度と開かない。
これはきっと、マティアスとアンナにとっては二度と開かないということなのだと思う。彼らにとっては、もう開ける必要もない。

でもこの救いの地を必要とする別の子どもには、まだその扉は開いている気がする。
その時はかの地もミナミノハラではなく別の名前を持っているだろう。
その子にとって幸せな思い出のある場所の名で、そこで会うお母さんも、まさにその子のお母さんだろう。

この物語はファンタジーだけれど、どこかアンデルセンの「マッチ売りの少女」を思い起こす。
マッチの火が燃えているあいだだけ見える、すばらしい光景。
そして三度目の光景が消える前に、少女はこの世に戻る扉を閉めたのだ。

あれもまた、今は豊かで幸福な国が貧しかった時代の話で、あのような少女はリアルに存在したのだろうな、と思う。
過酷な環境の子どもたちは、北欧からはいなくなったとしても、地球上からいなくなってはいない。
  
posted by Sachiko at 22:10 | Comment(0) | 児童文学
2021年12月21日

もうひとつの「手回しオルガン」

以前「手回しオルガン」というタイトルで書いたのは、ムーミン谷に春が来てみんなが目をさます時、手回しオルガンを回しながらトゥティッキが谷間の向こうへ去っていく話だった。

エリナー・ファージョンの短編「手まわしオルガン」は、短編集「ムギと王さま」に収録されている。


闇夜の森を抜けて家路をたどる旅人が、森で道に迷ってしまう。
寂しさから独り言を言い続けているうちに、音楽がきこえてきたのに気がついた。

それは手回しオルガンの音だった。
旅人が「おい、どこにいるんだい?」と声をかけると、「ここですよ、だんな」と答える声がした。

たのしい曲が続くあいだ、旅人は陽気に踊った。
街角で弾くことから引退したオルガン弾きは、今はどこでも好きなところで弾いているのだった。

次の曲が始まると、草木や虫や花たち、小川も空の星も、森の中のすべてのものが踊りはじめた。

旅人はいつの間にか踊りながら森を通り抜けて、町の灯が見える道に出ていた。


真夜中の森のオルガン弾き.....なんとも不思議な光景だ。
最初に読んだ時には一瞬、旅人の声に答えたのはオルガンそのものかと思ったが、ちゃんとオルガン弾きがいた。

しまいには森のすべてのものが踊りはじめる、楽しく不思議で美しく、ほんの少しばかり不気味でもある物語。


大道芸人のいる街角は、色彩と仄暗い闇とが混在する、古い時代のフランス映画やイタリア映画を思わせる何ともいえない人間臭さがあった。

その気分は人生の幸福も苦難も、物語の中に包みこむ。
“人の世は舞台、男も女も役者にすぎぬ”という、シェイクスピアの名言のように。


札幌でも昔、夏ごとにフランスから出稼ぎに来ていた大道芸人がいたけれど、その後道路や公園での大道芸を禁じるような条例ができたらしい。

杓子定規になった現代社会は、アナーキーな匂いのする組織化されない人間を嫌う。彼らの存在はどこか不安を誘うのだろう。

けれど自然界の2:8の法則のように、規格外を排除しようとすると、また新たな規格外が生まれる。
そうした規格外は、実は血の通った世界のために必要な存在ではないのだろうかと、森を抜ける旅人もオルガン弾きもいなくなった時代に思う。
  
posted by Sachiko at 22:22 | Comment(0) | 児童文学
2021年08月17日

「図書館にいたユニコーン」・2

「図書館にいたユニコーン」(マイケル・モーバーゴ作)

・・・その夏、トマスの村にも戦争がやってきた。
ある日爆撃機が飛んできて爆弾を落とし、村中に火が燃え広がった。
トマスの家は焼けずにすんだが、父さんのゆくえがわからなくなっていた。

村の中心で、燃えている図書館に消防士たちが放水していた。
そのとき、父さんとユニコーン先生が本を抱えて図書館から出てくるのが見えた。

村人たちも集まり、力を合わせて本を運び出し、これ以上は危険という最後に、父さんと先生が木でできたユニコーンを運びだした。


先生は言った。
「このユニコーンはわたしの父が作ったものなの。父はよくいっていたわ。木でできたユニコーンだけれど、本物とおなじように、ふしぎなまほうの力をもっているんだよって。
・・・
建物はこわせても、わたしたちのゆめをこわすことは、だれにもできないわ」

家が焼けずにすんだ人たちは、救い出した本を少しずつ預かり、戦争が終わって新しい図書館ができたらまた持ち寄ることになった。


戦争が終わって新しい図書館が建てられても、すべてが元どおりになったわけではなかった。
戦地から帰ってこなかった者も、癒えない傷を負った者もいた。

20年後、ユニコーン先生は今も図書館で働いている。大人になったトマス少年は本を書く仕事をし、ときどき子どもたちにお話をするために図書館へ行く。


焚書などしないまでも、子どもたちを(大人たちも)物語や詩から遠ざけ、自由に考え、想像することから遠ざけようとする力は常に機会を狙っている。

その力は、外側の物質的な破壊から、人間の内面の破壊へと方法を変えてきているらしい。
それは遠い昔や遠い国の話ではなく、今進行中の危機である。

ほんものの物語や詩には、人間の内側を破壊から守ってくれる不思議な力がある。まさにユニコーンの魔法だ。
この物語は、実際に図書館の本を救った司書の話がもとになっているという。
  
posted by Sachiko at 22:05 | Comment(2) | 児童文学
2021年08月13日

「図書館にいたユニコーン」

「華氏451度」で焚書や本の力について語られていた流れで、これも本の持つ力について書かれた物語。
2005年(日本語版は2017年)初版の新しい児童文学だ。

「図書館にいたユニコーン」(マイケル・モーバーゴ作)

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静かな村に住むトマス少年は、学校がきらいで山が大好き。
ある日、母さんに図書館ヘ連れていかれた。母さんが買い物をしているあいだ、図書館でお話を聞かなくてはならない。

お話の部屋をのぞいてみると、木でできた本物そっくりのユニコーンの隣に、子どもたちからユニコーン先生と呼ばれている女の人がすわっていてお話をはじめた。


・・・
洪水を起こす大雨が降りだしたとき、山のてっぺんには、方舟に乗りそこねた二頭のユニコーンが取り残されていた。

水は山頂まで押し寄せ、ユニコーンは泳ぐしかなくなった。
何年も泳ぎ続けるうちに、ユニコーンは少しずつクジラに姿を変えていった。

それでもユニコーンの魔法の力と、その角だけは失われなかった。
今でも海には、ユニコーンの角を持ったクジラがいる・・・


そのあともユニコーン先生のお話や詩は続き、トマスはお話会に魅せられていった。

ある日先生は、焼け焦げた跡のある、宝物だという古い本を持ってきた。
先生は何があったのかを話しはじめた。

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・・・子どものころ、わたしは、よその国に住んでいました。
その国を支配していたのは、心のゆがんだ、ひどい人間たちでした。
その人たちは、物語や詩の力をおそれていました。本が人々にあたえるふしぎな力に、おびえていたのです。

その国の支配者たちは、わたしたちのようなふつうの人間が、考えたり、ゆめをもったりすることがいやだったのです。
じぶんたちとおなじように考え、おなじことをしんじて、いわれたとおりにしてほしかったのです。

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そしてある日、兵士たちがやってきて町じゅうの気に入らない本を奪って広場に集め、火を放った。兵士たちは本が燃えるのをながめて笑っていた。

その時、先生のお父さんが命がけで炎の中から取り戻したのが、宝物の一冊だったのだ。


権力者たちが物語や詩の力をおそれている.....
いつの時代にも、それはほんとうだったようだ。
自分で考えたり夢を持ったりする人間は、権力を必要としない。
それでは都合が悪いのだ。

前にも書いたけれど、ミヒャエル・エンデやアーシュラ・K・ル=グウィンも同様のことを言っている。

「注目できるのは、世界中の独裁者がファンタジー文学や想像力を敵視したという事実です。彼らはファンタジーの中に、何かアナーキーなものが隠れていると感じたんです。」(ミヒャエル・エンデ)

「私たちが認識と共感と希望とを手に入れるのは、結局のところ何よりもまず、想像力によってなのですから。」
「ファンタジーは事実ではありませんが、〈真実〉なのです。
大人たちだって知ってはいる。知っているからこそ、彼らはファンタジーをおそれるのです。」(アーシュラ・K・ル=グウィン)


本や物語の中にあるものは、人間の想像力、つまりは精神と魂の力によって表現されたものだ。
それはまさに、人間に与えられている人間らしい能力だ。
ほんものの人間の在り方を怖れるようにはたらくのは、どんな力だろう?

この物語はまだもう少し続く。
  
posted by Sachiko at 21:24 | Comment(0) | 児童文学