2025年10月04日

「兄と妹」

グリム童話『兄と妹』(Brüderchen und Schwesterchen)

日本では兄と妹と訳されているけれど、どちらが年上なのかは明記されていないので、海外の絵本や演劇では「姉と弟」という描写になっていることもある。
きょうだいのどちらが年上なのか定かではないというのは、日本人の感覚としてはどうもモヤモヤする。

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「お母さんが亡くなってから、僕たちはちっとも幸せじゃないね」
兄は妹の手をとって言いました。
二人は継母につらく当たられ、ろくに食べるものももらえなかったのです。

二人は家を出て歩きつづけました。兄はのどがかわいてたまらず、泉をさがしました。しかし悪い継母は魔女で、子どもたちの後をつけ、泉に魔法をかけていたのでした。

妹には、その水を飲むと獣になってしまうという泉のささやく声が聞こえたので、兄を止めました。
三つ目の泉に来たとき、妹は「私の水を飲む者はシカになる」という声を聞き「お兄ちゃん、飲まないで。さもないとシカになって逃げてしまうわ」と言いましたが、兄は聞かずに水に口をつけたとたん、子鹿の姿になっていました。

妹はシカを連れて森の奥へ進み、空家をみつけてしばらくそこで暮らしました。
あるときこの国の王さまがこの森で大がかりな狩りを催しました・・・・
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この物語には典型的なメルヒェンの要素がいっぱい詰まっている。
悪い魔女と子どもたちの受難、魔法で動物の姿に変えられること、王さまが現れて娘と結婚、魔女の娘が偽のお妃になりすます、“三度”の繰り返し、やがて真実が明らかになり魔女は罰を受けて死に、魔法が解ける.....

王さまがやって来た時、妹は結婚できる年齢になっている。兄妹はどのくらいのあいだ森で暮らしていたのか...などと考えるのは野暮というもの。

メルヒェンの時間はこの世の時計では計れない。そこには別次元の基準がある。
メルヒェンのヒロインも、王様や王子様も、この世の人間ではなく、宇宙の基準に従う深い魂のエレメントで、ゆえに時代や民族を超えた普遍性を持つ・・・などという解釈もまた野暮だろう。
ただこの彩り豊かなメルヒェンを楽しもう。

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『兄と妹』 https://fairyhillart.net/grimm1.html

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posted by Sachiko at 22:23 | Comment(2) | メルヒェン
2025年06月30日

「雪白と薔薇紅」

グリム童話『雪白と薔薇紅(Schneeweißchen und Rosenrot)』
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貧しい寡婦が小さな家で暮らしていました。
庭の二本のばらの木には、白い花と紅い花が咲きました。
 
寡婦にはこのばらのような、雪白とばら紅というふたりの子どもがいました。
ふたりともそれは気だてのよい善良な子どもでしたが、ばら紅は森や野原を駆け回るのが好きなのに対し、雪白のほうは少しおとなしく静かで、家にいてお母さんの手伝いをするのが好きでした。
 
仲良しのふたりは、よくいっしょに森へ行きました。
森の獣たちがふたりに危害を加えることはありませんでした。
  
森で夜になってしまったときには、並んで苔の上で眠りましたが、母親はそれを知っていたので心配することはありませんでした。
  
あるとき森で一夜を過ごし、夜明けに目を覚ますと、輝く白い服を着た美しい子どもが苔の寝床のそばにすわっていました......
  
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ある冬、熊が家に訪ねてきて子供たちと仲良くなり、春になると森へ出て行った。
夏、娘たちは困った事態に陥っている小人に会い、三度までも助けるが、恩知らずの小人は悪態をつく。
 
そこにやってきた熊が小人をやっつけると、魔法が解けて熊の毛皮が落ち、美しい王子が現われた。
小人に奪われていた宝も取り戻して、王子は雪白と結婚し、ばら紅は王子の弟と結婚した。


白いばらと紅いばらの美しいイメージ、そしてばらのような二人の少女のようすが可愛らしく、これも子供の頃好きなお話だった。

ここでも、悪い魔法によって動物に姿を変えられた王子が出てくる。
以前「魔法にかけられた王子」という記事で、動物に変えられた姿は、人間が本来あるべき状態にないことを意味しているということを書いた。(ヨハネス・シュナイダー「メルヘンの世界観」より)
そして魔法が解けたときに現れる人間は、王族の姿なのだ。

物語の中で、春になって熊が森に出て行くとき、戸口の鈎に引っかかって毛皮が少し切れる。そのとき雪白には、毛皮の裂け目から金が光ったように見えた。

毛皮が切れて、一瞬金の光が見える。これは何だかとても深い。
獣の姿の奥に、黄金の光を放つものが隠れている。
それを見たのは、内的な心のはたらきを持つ雪白だ。

シュナイダーの「メルヘンの世界観」ではこの物語にも触れられていて、悪い小人は、心の働きから切り離され頭でっかちで利己的な、人間の知性が独り歩きしたときの危険性を表わしているという。
その姿はまさに、現代の人間そのものだ。

知性と心のはたらきの結婚によって、統合された本来の人間性が現われる。この一見可愛らしい物語が、実は壮大な宇宙的人類史の行方を示唆していたのだとしたら、やはりメルヒェンは侮れない。
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《雪白と薔薇紅》 https://fairyhillart.net/grimm1.html

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posted by Sachiko at 21:57 | Comment(2) | メルヒェン
2025年05月03日

「ガチョウ番の娘」

グリム童話『ガチョウ番の娘』
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昔、夫を亡くした年とったお后がいました。
お后には美しい娘がいて、遠い国の王子と結婚することになり、お后は王女にふさわしい豪華なお嫁入りの品々を用意して侍女もひとり付けてやりました。
旅にはそれぞれの馬で行きますが、王女の馬はファラダという名で、話すことができる馬でした。

別れの時、お后はナイフで指を切り、白いハンカチの上に三滴の血を落として、途中で役に立つだろうからとそれを娘に渡しました。
旅に出ると侍女は高飛車な態度をとり、盃に水を汲んでほしいと頼む王女に、「自分で川から飲めばいい」と言い、王女が腹ばいになったとき、胸にしまったハンカチが落ちて川を流れて行ってしまいました。

これで王女が無力になったことを知った侍女は、馬と衣裳を自分のものと取り換えるように言い、王女になりすましてお城に入りました。
こうして本物の王女はガチョウ番の少年の手伝いをすることになりました。

偽の花嫁は、馬のファラダが何かしゃべるといけないと思い、馬の首を切り落とすように王子に頼みました。
それを知った王女は畜殺人に、馬の首を町の門に留めてほしいと言い、そのようになりました.....
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最後はすべてが明らかになり、侍女は裁きを受けてハッピーエンドになる。

白いハンカチの上の三滴の血というシンボルは、他の物語にも出てくる。
『白雪姫』では、お后が窓辺で指に針を刺し、雪の上に三滴の血が落ちる。
『ネズの木−または柏槇の話−』では、長いこと子どもをほしがっていた夫婦がいて、ある時妻が木の下でリンゴを剥いていて手を切ってしまい、雪の上に三滴の血が落ちる。

円卓の騎士のひとり、聖杯探求者のパルジファルの物語では、鷹が空から舞いおりてきて一羽の野鴨に傷を負わせ、血が三滴、雪の上に滴り落ちた、という描写がある。

三滴の赤い血のシンボルを、昔の人間はそのままで魂的に理解することができたらしい。
現代人は何もかも頭で解釈しようとし、頭が理解できないものはわけがわからないといって否定しがちだ。
雪の上の三滴の赤い血のイメージを、繰り返し魂に響かせていくと、やがて何かを語りかけてくるかもしれない。その言葉は明晰な頭の言語ではないだろう。


ところで王女が切られた馬の首に話しかけるところ、私は『遠野物語』のオシラサマ伝説を連想してしまったのだけれど、もちろん二つの物語には何の関係もなくストーリーも全く似ていない。

ただ、古い時代、人間と馬ははるかに密接な関係にあったことを思い起こさせる。全く違う話なので、オシラサマの話はまた別の時に。

https://fairyhillart.net/grimm1.html
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posted by Sachiko at 17:10 | Comment(2) | メルヒェン
2024年03月08日

「森の中の三人の小人」

グリム童話の「森の中の三人の小人」。

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奥さんをなくした男と、ご亭主をなくした女がいました。
それぞれには、娘がひとりいました。
ある時女やもめが男の娘に、このおばさんがお父さんのお嫁さんになりたがっていると伝えるように言いました。

そうして二人はいっしょになりましたが、男の娘は美しく、女の娘は器量が悪かったので、女はしだいにまま娘につらくあたるようになりました。

ある冬の日、女はまま娘に、紙で作った服を着て森でいちごをとってくるように、かごがいっぱいになるまでは帰ってきてはいけないと言いつけ、娘はかたいパンを一つだけ持たされて森へ出かけました。

森に入ると小さな家があり、そこに三人の小人が住んでいました。
娘があいさつをして戸をたたくと、おはいり、という声がしました。

小人たちがパンをわけてほしいと言ったので、娘は小さなパンを半分わけて、ここに来たいきさつを話しました。
小人は娘にほうきを渡し、これで戸口の外の雪をはくようにいいました。

三人の小人は親切な娘におくりものをすることにしました。
ひとりは、娘が日ましに美しくなるように、もうひとりは、娘が口をきくたびに口から金貨が落ちるように、三人目は、どこかの王さまが娘をお妃にするように、と。

娘がほうきで雪をはくと、そこに真っ赤に熟したいちごが出てきました.....
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このあと、いちごを摘んで家に帰った娘が口をきくたびに金貨がこぼれ落ちる。
うらやましくなった実の娘が自分も森に行きたいとせがむので、女は娘に毛皮のコートを着せ、バター付きパンとお菓子を持たせる。

森で、この娘は挨拶もせず小人たちの家に入り、持って来たお菓子もひとりで食べて分けてやらず、ほうきで雪を掃く気もない。

小人たちは、この子が日ましに醜くなるように、口をきくたびにヒキガエルが飛び出すように、不幸な死に方をするようにと、それぞれ贈り物をした。


気だてがよく美しい娘が継母から無理難題を言い渡されるが、超自然的な存在に助けられる。そしてもう一人の娘は真逆の行ないをして真逆の目にあうのは、おとぎ話の典型パターンのひとつだ。

ここまでは「ホレおばさん」と似た筋書きで、冬の森でマツユキソウを採って来るように言いつけられた、マルシャークの「森は生きている」も、同じパターンだ。
類話はヨーロッパのかなり広範囲にわたって伝えられていると思われる。

この話の場合はさらに続きがあり、贈り物の三つめが叶えられて、娘はお妃になり、子どもを産む。
それを聞いた継母とその娘は王様の留守中にお城に入り、お妃をベッドから引きずり出して窓から外の川に放り込み、娘が身代わりにベッドにもぐりこんで...という話が続く。


メルヒェンはとてもシンプルだ。
よい行いにはよい報いがあり、悪い行いには悪い報いがあって、最後には悪事は暴かれ、相応の結果となる。

宇宙から降ろしてきたシンプルな法則は、子どもだけでなくすべての年代の人間に働きかける。
それは、時代によって複雑になったり歪んだりする地上の様相とは別の高みから、魂にまっすぐ射しこむ星の光のようだ。


※グリム童話の全作品を読めるサイトが幾つかあり、これはその一つ
      ↓
https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/list

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《森の中の三人の小人》  https://fairyhillart.net/grimm1.html

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posted by Sachiko at 17:39 | Comment(2) | メルヒェン
2024年02月12日

「白蛇」

動物の言葉つながりで、グリム童話の「白蛇」。
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昔ある国の王さまがいつも、食事のあとでもうひとつのお皿を持ってこさせるのですが、誰もその中身を知る者はいませんでした。

ある日ひとりの家来がどうしても中を見たくてたまらなくなり、こっそりふたを取ってみると白い蛇が一ぴき入っていました。家来は食べてみたくてがまんができず、一切れ切って口に入れました。

すると、動物の言葉がわかるようになったのです。
ちょうどこの日、お妃の指輪がなくなったという騒ぎが起こり、この家来に疑いがかけられ、王さまは、もし明日までに犯人を見つけることができなければお前を処刑する、と言いました。

家来がどうしたものかと考えていたところ、鴨たちが話している言葉が聞こえてきました。一羽の鴨が指輪を飲みこんでしまったというのです。
家来はその鴨をつかまえて料理人にさばいてもらうと、胃の中から指輪が見つかりました。

王さまは疑いをかけた埋め合わせに、何でも望みをかなえてやろうと言いましたが、家来は馬と旅費だけをいただいて、世の中へ旅に出ることを願い出ました。

そうして旅に出た若者は、茂みに挟まった魚たちを助けたり、蟻を踏まないように道の脇によけたり、巣から落ちた子鴉たちを助けたりして、それらの生きものたちから感謝されます。

やがてある国のお姫さまがお婿さんを探していることを知って申し出ますが、お姫さまは次々と無理難題を与え、そのたびに若者は助けた動物たちのはたらきに助けられます。
最後に鴉たちが持って来た生命の木の実を食べるとお姫さまは若者を愛するようになり、二人はそれからいつまでも幸せに暮らしました。

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動物の言葉がわかるようになることと、助けた動物たちから恩返しを受けること、おとぎ話に典型的なふたつの要素が入っている。
アーシュラ・K・ル=グウィンの「子どもと影と」というエッセイの中にはこんな記述がある。

「動物たちに感謝されるか、あるいは何らかの理由で動物たちに助けられる人物が必ず勝利を得る」
「家路を知っているのは動物です。わたしたちの内なる動物、影の魂こそが案内人なのです」

「白蛇」の中の若者が助けた動物たちも、「あなたを忘れません。いつかご恩返しをします」と言い、彼が窮地に陥ったときに助けに現れる。
動物が魂の象徴であるなら、自分自身の影の魂を救う者が勝利の光を得ることになる。

この「白蛇」や「聞き耳頭巾」など、特別な方法を経て動物の言葉がわかるようになる話がある一方で、「赤ずきん」の狼や「雪白とばら紅」の熊のように、最初からあたりまえのように動物と話ができる物語もある。
動物と話す能力を得るために何らかの道具やプロセスを経なければならないのは、原初的な力を失った比較的新しい時代の物語なのだろうか。

助けた動物が恩返しをする話は日本にもあるが、浦島太郎にしても鶴の恩返しにしても、最後に一ひねりあってハッピーエンドになっていないのはなぜだろう。
  
posted by Sachiko at 22:27 | Comment(2) | メルヒェン