2025年04月17日

続・“飛行おに”の魔法

「たのしいムーミン一家」より。

ムーミンパパが願いを叶えてもらう番になったが、これ!という願いが思い浮かばない。パパも、特に渇望するものがないほど満たされているのだ。

そこでママが、
「あなたの自伝をとじる、すてきなつづりこみにしたら。」
と提案し、パパはすばらしいつづりこみをもらった。

スノークのおじょうさんは、海岸で拾った木の女王さま(船首飾りの像)のような美しい目にしてほしいと頼んだのだが、これはばかな願いだった。
結局スノーク兄がそれを取り消し、元の小さなかわいい目に戻してもらうことになった。。

飛行おにはこうしてみんなの願いを次々に叶えていき、そのときムーミン家にいた人たちの中で、トフスランとビフスランが最後に残った。
ビフスランが聞いた。

「あなたは、じぶんでじぶんののぞみをかなえることはできないの?」

「それはできんのじゃ。わしはただ、ほかのものののぞみをかなえてやるのと、じぶんのすがたをかえるのができるだけなんだ。」

他の人の望みを叶えるのは簡単なのに、魔法使い本人が何よりも一番欲しいものが、自分の魔法では手に入らない。

トフスランとビフスランは長いあいだ相談したあと、、飛行おにの代わりに、ルビーの王さまと同じくらいきれいなルビーを出してくれるように願った。

トフスランとビフスランはすでにルビーの王さまを持っているのだから、彼らも満たされている。この奇妙なふたりが自分たちの番になった時に、飛行おにのために願うことを思いついた。
この場面は、その方法があったか!と意表を突かれたような感じがした。


飛行おにが喜びにあふれてマントを振ると、ルビーの王さまと双子のような『ルビーの女王』が現われた。

すっかり機嫌よくなった飛行おには、集まってきたほかのみんなにも願いを叶えてやった。ふたたびお祝いがはじまり、夜明け前に飛行おには、世界のはてに飛んでいった。
飛行おには、たぶんこの巻にしか登場しなかったのではないかと思う。

望むものが他の人を通してでなければ手に入らないというのは、なんだかとても深い真実のようだ。
  
posted by Sachiko at 22:31 | Comment(2) | ムーミン谷
2025年04月09日

“飛行おに”の魔法

とても久しぶりのムーミン谷、「たのしいムーミン一家」から。

魔法使いらしい“飛行おに”は、『ルビーの王さま』というすばらしい宝石を探して世界中どころか宇宙までも旅していた。
そのとき月にいた飛行おには、地球で赤い光が輝いているのを見つけ、黒ヒョウに乗ってムーミン谷に降りて来る。

トフスランとビフスランという、双子のようにそっくりなひとたちが持っていたスーツケースの中に、ルビーはあった。飛行おにはこれを300年も探していたのだ。

何か食べるものがほしいという飛行おにに、ムーミンママはパンケーキとジャムを差し出す。
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パンケーキにジャムをのせて食べるひとが、そんなに危険人物であるわけがありません。(これは『ムーミン谷の名言集』にも載っている)
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85年ぶりにパンケーキを食べたという飛行おにに、みんなは同情する。
パンケーキを食べ終えた飛行おには言った。

「わしはきみたちのルビーを、とりあげるわけにゃいかない。そんなことをするのは、どろぼうだからな。
しかし、なにかととりかえるわけにはいかんかね。」

けれどトフスランとビフスランはどうしても渡したくないと言う。
しばらく悲しそうにすわっていた飛行おには、最後にこう言った。

「わしはきみたちのために、ちょっとしたまほうをつかって、じぶんをなぐさめることにしよう。
きみたちのひとりひとりに、一つずつまほうをかけてあげよう。
さあ、みなさん、なにかのぞみがあったらいいなさい。」


300年も探し続けた宝が目の前にありながら手に入らない埋め合わせに、魔法でみんなの願いを叶えてあげる.....とても奇妙な申し出に見える。
でも飛行おには、それで慰められるらしいのだ。

ムーミンママは、スナフキンが旅立ってしまったことを悲しんでいるムーミンがもう悲しまないようにと願った。
飛行おにがマントを一振りすると、ムーミンの悲しむ心は、また会える日を待ち望む心に変わり、そのほうがずっと気持ちがいいのだった。

そして元気になったムーミンは、どこか遠くにいるスナフキンのところまで、ごちそうの載ったテーブルを届けてくれるように願う。


ムーミンママが与えられた願いの力を、自分のためにではなく悲しむムーミンのために使うこのシーンが、私はとても印象に残っている。

ママはきっと何かを求める必要がないほど満ち足りているのだ。
そして気分がよくなったムーミンも、願いの力をスナフキンのために使う。さっきまではそのスナフキンがいないことで悲しんでいたのに。
こうして他の誰かのための願いが循環していくようすは心地よく映る。

飛行おにの魔法の話はもう少し続く....

 
posted by Sachiko at 22:33 | Comment(2) | ムーミン谷
2025年03月21日

春分を過ぎて

最低気温が氷点下を脱し、来週は最高気温も10度を超える日がありそうで、とうとう春だ。

昼と夜の時間が等しくなるこの時期をお彼岸というのは、彼岸と此岸の境目が薄くなり、ふたつの岸が近くなるからだが、こういうことはどの文化圏でもどこか似通ったものがある。

夜明けや日没の、昼と夜の境目は、妖精が見えやすい時間帯だという。
アイルランドの伝承では家の妖精は玄関の敷居に棲むと言われるが、これも内と外の“境目”だ。

ウィッカ(自然魔術)においては、春分と秋分の祝祭は比較的新しく取り入れられたもので、それらは南方発祥の儀式だそうだ。
春という言葉で最も美しいのはイタリア語の“プリマヴェーラ”だと言った人がいた。
たしかに“プリマヴェーラ”と聞くと、ボッティチェリの「春」が浮かび、ヴィヴァルディの「春」が鳴りだす。歌い上げるようなイタリアの春は美しいだろう。


私はやはり、うず高く積もった雪の山が小さくなり、ある日地面から最初の芽が出ているのを見つけた時の気分がたまらない。
今年も最初の花、スノードロップが咲き出した。

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posted by Sachiko at 21:33 | Comment(2) | 季節・行事
2025年03月06日

二十四節気

3月、ひな祭りも過ぎて、昨日は啓蟄だった。
寒さが緩み、土の中に潜んでいた虫などの小さな生きものが目覚めて活動を始める頃...ということだが、それは本州の話で、こちらはまだもう少し雪が続きそうだ。

二十四節気をさらに分けて季節の折々の事象を表した、七十二候。
近いところでは、3月10日が“桃始笑”(ももはじめてさく)、3月15日は“菜虫化蝶”(なむしちょうとなる)....

これらの言葉は、私が数年来使っている「イン・ヤン・カレンダー」という、和暦と月の満ち欠けが載った小さなカレンダーに書かれている。
今はもう耳にすることもなくなった、季節の言葉たち。

四季折々の自然の変化や、毎日の月のフェイズは、昔の人の暮らしに溶け込んでいた。
そのことは無意識のうちにでも、人間が自然の一部であり、からだやこころが自然のリズムとともに生きていると感じられていたことだろう。


農作業は旧暦に沿って行うとうまくいくと言われている。
明治の初め頃まで使われていた太陰太陽暦は自然の理にかなったものだったが、社会が西洋化しその構造が変わるにつれて、いろいろ不都合が出てきたのだ。

今世界中で使われているグレゴリオ暦は、宇宙のリズムにも身体のリズムにも合っていないという。シュタイナーも、365というのは悪の数字であるとか言っていたような。

日本の新しい祝日などは、もはや社会の都合によってだけ決められている。(私は、祝祭日は基本、季節行事だけでいいと思っている。)

今の文明が終わり全く新しい世界が現われて、いつかまた改暦されることがあるだろうか。
太陽と月と星々と、季節の巡りと生きものたちのいとなみと....
もういちどそれらとともに、宇宙のリズムとも身体のリズムとも調和する時間の在り方が取り戻せたらいいな、と思う。

二十四節気、次は3月20日の春分で、これは大きな節目となる。
 
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posted by Sachiko at 22:01 | Comment(0) | 季節・行事