2025年02月21日

人間の天職としての美

この素晴らしい言葉は、ジョン・オドノヒュー(アイルランドの詩人・哲学者 2008年没)のHPで、他の人たちが彼へのオマージュとして書いた幾つかの文章の中にあるのを見つけた。

---------
「・・・彼は人間の天職としての美を唱えた。彼は極めてケルト的で、人間の内なる風景や、彼が「目に見えない世界」と呼ぶもの、そして私たちが知り、見ることのできるものと絶え間なく交錯するものに対して、生涯魅了されていた」
---------

人間の天職としての美.....

人生における使命というと、多くの人は何らかの職業を考えるかもしれないが、シュタイナーは「使命を考えるときには、職業的なものを考えないほどよい」と言っていた。
ドイツ語で職業は“Beruf”で、元々は「召し出し」を意味する。
地上の職業ではなく天の職、より高いところ--天からの召し出しとしての美。


美についてのエンデの次の言葉は、以前にも何度も書いていると思う。

「美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させます。
美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものです。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示します。」

イデアとしての美とひとつになる、それはまさに「召し出し」だ。
美が見えるところにいるなら、故郷への扉は開いている。
それぞれのこの世の人生がどんな姿をしていようと、人は常に源に招かれている。

美という天職があることを知るとき、深い安堵感が静かに満ちるだろう。
 
posted by Sachiko at 22:06 | Comment(2) | 言の葉
2025年02月09日

ギムリの願い方

とても久しぶりに『指輪物語』から。

ガンダルフを失った旅の一行は、ロリエンの都に入った。
数日滞在したのち、出発の日にガラドリエルの奥方は、ひとりひとりにふさわしい贈り物を与える。

アラゴルンには緑色のエルフの宝石、ボロミアには金のベルト、メリーとピピンには小さな銀のベルト、レゴラスにはこの地のエルフの弓矢、サムにはガラドリエルの庭の土が入った小箱。

「してドワーフはどのような贈り物をエルフに所望されるだろうか?」

ギムリは何も所望せず、ガラドリエルに会えて言葉を頂けただけで十分と答えるが、ガラドリエルは、欲しいものがあるならそれを言うように命じる。

「・・・こんなお願いをすることを、いえ、お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら、奥方様のお髪を一筋いただけましたらと、存じます。
―――わたくしはこのような贈り物をいただきたいとは申しませぬ。ただわたくしの望みを口にするようにお命じになりましたので。」

エルフたちが驚く中、奥方は髪の毛を三本切り取ってギムリの手に置いた。

そして最後にフロドに光を集めた水晶の瓶を渡すと椅子を立ち、一行は船着場から小船に乗り込んだ。

旅の一行それぞれに贈り物が用意されていた中、なぜかギムリだけが望むものを言うように命じられる。
ギムリの答えは、望むのではなく、ただその望みを口にするだけ。

「お願いではありませぬ。ただ口にすることをお許しいただけますなら....」

そして、それは叶えられた。


人間、エルフ、ドワーフ、ホビット...
それぞれの種族から集められた旅の仲間の中で、私はドワーフのギムリにあまり関心を持っていなかったけれど、この願いの場面はなぜか印象に残っている。

ガラドリエルには、それぞれが必要とするもの、ふさわしいもの、役立つものが見えていた。が、ギムリの願いはそのようなものではなかった。

「・・・地上の金をことごとく集めても奥方様の髪の毛一筋には及びませぬ。」

一筋の髪は、ガラドリエルに対する、言葉にもかたちにも表しきれない最高の敬意と賛美の象徴なのであり、故にこの贈り物は、あらかじめ用意しておくことのできないものだったのだ。

ロリエンの地が見えなくなった後、ギムリは言った。

「わたしはいちばん美しいものの見おさめをしてきた。
これから後、わたしはいかなるものも美しいとは言うまい。奥方からいただいたこの贈り物をのぞいては。」


フォークロアの中のエルフやドワーフは、妖精や鉱山の小人として描かれるが、この『指輪物語』においてはどの種族も超自然的な存在ではなく、ある意味みんな「人間」である。

そしてファンタジーの語り口は、高貴なエルフも邪悪なオークも他のすべての存在も、壮大なタペストリーの中の欠かせない図柄の一部として物語を彩らせる。
 
posted by Sachiko at 22:11 | Comment(2) | ファンタジー
2025年01月28日

もうひとつの...冬?

1月だというのに、もう何週間も最高気温がプラスの日が続いている。
体がなまってしまうような生ぬるさだ。

あるところで、九州の冬景色の写真を見た。
一面の枯れ野は、文字通り枯れ色一色の、何とも不思議な見たことのない景色。

あの季節は...何と呼ぶのだろう。
冬ではない。冬というのは一面真っ白な雪景色のことだ。
そのもうひとつの冬は、私の知らない異界の季節のように見える。
もっとも向こうから見れば、真っ白な根雪が異界のように見えるだろう。日本は縦に長いのだった。

思えば北海道では、これほど枯れ色一色にはならない。(雪の少ない道東では、春先など一時的になるかもしれない。)
たいていは秋の色が残っているうちに雪が降ってしまう。
紅葉、赤いバラの実、まだ緑を残している草たち、冬も緑の針葉樹....そこに、ある日雪が降る。

葉が落ちて赤い実だけが残ったナナカマドに雪が積もっている様子を、九州よりもっと南の国から来た人たちが嬉しそうに写真に撮っている姿を時々見かける。


それにしてもこの暖かさ。
昔の1月は最高気温がマイナス10度という日が続くのが珍しくなかったのに、この冬は最低気温すらマイナス10度以下にならない。
2月に真冬日が戻って来ても、もう光が春の明るさになっている。

四季は自然界の4つのエレメント(地水火風)に対応し、人間の4つの気質にも対応している。
地球上で四季がすべて揃う地域は少ない。

現代社会が胆汁質(火と夏の気質)に偏りすぎていることが、実は温暖化の原因ではないかと思うけれど、どうかな。
 
posted by Sachiko at 15:58 | Comment(0) | 自然
2025年01月15日

ウルフムーン

1日過ぎてしまったけれど、昨日は今年最初の満月だった。

ネイティブアメリカンの間では、1月の満月を“狼の月−ウルフムーン”と呼ぶそうだ。この名前は、フィンドホーンからのメッセージで知った。
由来は、1月の寒く暗い夜にはオオカミの遠吠えが、皆に聞こえるように遠くまで響き渡るからだという。

6月のストロベリームーンや9月のハーベストムーンなど、近年はネイティブアメリカンによる満月の名前をちらほら耳にすることも増えてきた。
それらは自然の中での季節の出来事にちなんで名づけられている。

1月 ウルフムーン 
2月 スノームーン 
3月 ワームムーン
4月 ピンクムーン
5月 フラワームーン
6月 ストロベリームーン 
7月 バックムーン 
8月 スタージョンムーン
9月 ハーベストムーン
10月 ハンターズムーン 
11月 ビーバームーン 
12月 コールドムーン 

そして、それぞれの満月にはそれぞれの儀式がある。
1月の満月は内省のエネルギーで、春から始まる新しい1年の計画と準備に使うことができるという。

古い時代、月の暦で生きていた諸民族は、月のエネルギー、女性のエネルギーと親しかった。それらは今ふたたび、目を覚まして声を上げようとしている気がする。

オオカミは古くから多くの神話や伝説、物語の中に登場し、恐れられながらも人間に親しい存在だった。
日本ではオオカミは「大神」だったと言われるように、野生動物は宇宙と直結した存在で、かつて人間もその大きな環の中に属していた。

ニホンオオカミやエゾオオカミはいなくなってしまい、ヨーロッパオオカミも中央ヨーロッパからはいなくなっている。
オオカミや他の野生の生きものたちがいない世界で、人間は何者で在り得るのだろう。
彼らを思い出すとき、忘れられた月の道へいざなう力がかすかに働きかけてくるようだ。
 
posted by Sachiko at 22:29 | Comment(0) | 未分類